の」を無暗にかつぎ上げるかはりに、新派劇が今迄開拓した、磨き上げた、ほんたうに「物になつてゐる部分」を、そのまゝ、これからの芝居に取り入れて、「明日の演劇」を作るやうにしたいと思つてゐます。
新派の脚本といふものは実際ひどい。馬鹿馬鹿しい。通俗劇でもいゝから、せめて、ほんたうの感動を与へてほしい。それでも見物は見に行きます。それは、つまり新劇といふやつが、一層「面白くない」からでせう。
新劇はなぜつまらないか。これは、役者らしい役者、言葉がわるければ、役者と云へる役者がゐないからでせう。それでゐて、徒らに「六ヶ敷いもの」を演《や》りたがる。「深刻めいたもの」をやりたがる。「非戯曲的な戯曲」をかまはずに舞台にかける。見物の迷惑此の上なしではありませんか。翻訳劇と云へば、すぐに、イプセン、ストリンドベリイ、……ゲオルグ・カイザー……ですか。創作劇と云へば何は扨て置き……いや、こいつは、あとにしませう。
処で、これも日本人の悪い癖ですが、総て仕事を甘く見る。人がやる、すぐに自分にも出来ると思ふ。やつて見るとうまく行かない。あゝおれは駄目だ、死んでしまはう。一寸お待ちなさい。あんた、なか
前へ
次へ
全9ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング