三人を除いては、みな「玄人面をした素人」だと断言して憚りません。
 素人なら、素人らしい芝居を見せて貰ひたい。そこからだんだん、「現在の玄人には無いもの」が生れて来るのも事実です。然し、それが為めには、玄人のやらないこと、玄人では出来ないことをやつて欲しい。今の日本の現代劇が面白くないのは、素人劇だからと云ふだけではない。素人が玄人の真似をしてゐるからです。
 新劇の俳優に玄人と云へるものがないと云つて置きながら、玄人の真似とは如何、かういふ反問に答へることは、頗る容易です。これは、新劇の開拓者が、西洋の真似をした。真似の出来るところだけ真似をした。主に表面だけ、形式だけ、言ひ換へれば、半分だけ真似をした。内容と本質は、即ち残りの半分は、在来の芝居、又は間に合せの芸当でお茶を濁した。在来の芝居からは、比較的下らないものを随分取り入れてゐる。無意識的に取り入れてゐる。之等の新劇の開拓者の功労は、勿論認めなければなりません。また、色々な事情で、さういふ人達の理想は実現されなかつたでせう。然し、兎に角小成に安んじた――と云つて悪ければ――あんまり早く玄人のやうなつもりになつてしまつたのです。
 そんなら、どこまでが素人で、どこからが玄人か、そんな馬鹿なことを尋ねる人もありますまいが、それはつまり、修業の程度にあると云ふより外はありません。
「玄人の芸は型にはまつてゐていけない」。これは新芸術愛好者のよく口にする文句です。僕も、そのうちに、さういふことを云ひ出すかも知れません。たゞ、今のところ、日本に現代劇と云はるべき「殆ど完成した」芸術的演劇がまだその形を成してゐないことは、何と云つても心細い。
 そこで僕は、前にも云つたやうに、素人劇団でもいゝから、もつと「面白い芝居」を見せる工夫をして貰ひたいのです。それには危なかしくつてもいゝから変に固苦しくない、重苦しくない、かさかさ、或はじめじめしない、馬鹿馬鹿しくてもいゝから朗らかな、気取らない、大胆な、然し、常に聡明な、趣味の優れた作品を選んで、よく稽古を積んで、金なんか取らないで見せるくらゐの覚悟でかゝつて貰ひたいのです。
 さういふものゝ中から、やがて、ほんたうのものが生れて来るかもわかりません。
 要するに、歌舞伎劇以外に、「面白い芝居」が出て欲しい。われわれの芝居をもちたい。これが僕の現在の願ひです。



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