今日行はるゝ文芸批評の多くは世人をして「文学とはかくもつまらざるものか」と思はせる以外に何の役にも立たない。
批評家は、先づ「文学を愛すること」を教へてくれるべきである。
のみならず、さういふ批評を読んでゐると「文学者とはかくも軽蔑すべき人間か」と思ふに至るであらう。なぜなら、批評家は作家を競馬々の如く取扱ひ、批評家自身は、己れを文明の埓外に投げ出してゐる。
諸君は三河万歳といふものを御存じですか。烏帽子を被つた男と大黒帽を被つた男が、一方は扇子を持ち一方は鼓を鳴らし、所謂万歳歌を唱ひながら松の内の門毎を陽気に訪れて歩きます。
烏帽子の男を太夫と呼ぶんでしたかね。大黒帽はたしか才蔵と云ふんです。
太夫は歌の拍子を取るやうに、時々才蔵の頭を扇子で叩く。叩かれた才蔵は、お道化た顔をしてなほも唱ひ続けます。あれではさぞ痛からうと思ふほど音がすることがある。才蔵は変な格好をして太夫を見上げる。それでもにやにや笑つてゐます。
僕は、批評するものと、批評されるものとの立場が、この三河万歳の如くであることを痛感して、いさゝか暗い気持ちになるのです。
擲る方もいゝ気なら、擲られる方も心得たもの、そこはどちらも商売で、その場限りの愛嬌といふことになるのでせう。
「作品を批評して作家の人物評に及ぶことは、わが大日本帝国の文壇に於ては、ちつともヘンではないのである」と、大に見得を切つた批評家がある。
誰も作家の人物評をしてはならぬと云つた覚えはない。
憎んだり軽蔑したりしてゐたいなら、その作家が、自分には興味の有つてない、或は興味はもてゝも不満がある作品を発表したくらゐで、何もわざ/\、傍若無人な評言を加へる必要はあるまい。人物評もいゝが、立ち入り過ぎた「人格論」などは慎んだ方がいゝと云つたまでゞある。作品をさういふ立場からのみ見ようとする傾向を僕は好まないと云つたゞけである。
作品を批評して作家の人物評に及ぶことは必ずしも「ヘン」ではない。人物評のし方によると「ヘン」になるのである。
「作品は面白いが作者の人物がどうも頼りない」といふくらゐなことは、僕の趣味には合はないけれど、まあそれほど咎め立てをしなくてもいゝだらう。それよりも或る批評家が或る作家の作品を褒めたのに対して「かういふ作品に感心するのは幼稚な気がする」といふやうな言葉は、一刀の下に両者を重ね
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