つてゐないから、その必要がないと云へばないのである。
大体、かういふ傾向の劇評界に、職業的な立場を離れ、寧ろ、一個の見物として土産話をするやうな即席劇評家の登場は、それが、他の方面――殊に、文学芸術の領域に於て、それぞれ信用ある人々であるだけ、一般読者は、親しみと好奇心をもつてこれを迎へるだらうと想像されるが、さて、それらの読者は、多くそんな芝居を観てゐないのみならず、それによつて、その芝居を観ようとか観まいとかいふ気を起すのでなく、頭から、「自分もそんなことだと思つてゐた」と考へるぐらゐが関の山であつたら、折角の朝日の企ては、劇評といふ名目の大部を失ふことになるのだ。
一体文章などといふものは、誰が読むかを予め考へて書くべきであるかどうか、私自身時によつて、いろいろ使ひ分けをするやうな次第だが、少くとも、ひとたび、ヂャアナリズムの方向に乗り、その機関を通して発表する以上、既に、ある種の目標が決定されるわけだ。劇評にしろ、創作評にしろ、数万、数十万の読者を有する新聞雑誌に掲載せられるものとしては、常識から云つても、せいぜい五百か千の「専門家」乃至「専門的アマチュア」のみに呼びかける
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