れはこの劇場の生命である。
これは、余計なことかも知れない。が、批評をするものゝ立場から、それが許されることであらうと思ふから、言つてしまふ。それは、聞くところによると、向う二年間、此の劇場では外国劇以外には演らないといふことである。これが事実だとすれば、僕は甚だ不満である。結果に於て、上演目録が外国劇ばかりで満たされることは止むを得まい。然し、最初から、さういふ計画で、さういふ覚悟で、一つの劇場を経営する(営利的でないだけそれだけ)といふことに、どれだけの意義があるだらう。
勿論それは、日本に、外国劇の優れたものに匹敵する作品がないといふ理由であらう。或はまた、優れた外国劇の紹介によつてのみ、我が国の新劇運動を誘導刺戟し得るといふ考へからであらうが、それなら、若し明日にも、日本の作家中から、ゲエリングに対し、チェホフに対し、マゾオに対し、毫も遜色のない作品を発表するものが出たらどうするのだらう。そんな筈はないと云ふやうな乱暴なことは誰も云ふことはできない。
僕は万一、二年以内に、我が日本にもイプセン、モリエール、シェクスピイヤが出て来た時に、築地小劇場は、真先にその作品を上演して、演劇革新運動の先駆たる名を恥かしめないやうにして貰ひたいのである。若しも、無名の才能を萌芽のうちに見出して、その成長を助けることが出来なければ。なほ、もう一つの註文は、翻訳劇の模範的演出によつて、二年間を有効に使はうとするならば、少くとも、翻訳劇のあらゆる困難と不備とを研究して、われわれの不満を満たすやうに心がけてほしい。それは、第一に、翻訳の厳正な吟味である。定評なき外国翻訳の重訳を絶対に慎むことである。俳優の演伎中、特に外国人の談話の呼吸、動作、ヂェスチュア、その他、感情意志の間接表示、その細密な研究を積むことである。日本語を話しつゝ、外国人の手真似身振りを、そのまゝ模倣することは、固より愚である。而し、その日本語が既に、日本人の話す日本語そのまゝではないのである。露西亜人には露西亜人の、仏蘭西人には仏蘭西人の「考へ方」「感じ方」「話し方」がある。それまで、適当な翻訳のし方をしなければうそである。僕は、劇作家が、「対話に伴ふ動作」を勘定に入れないで舞台のイメージを創造することはないと思つてゐる。背景、道具、衣裳の或る程度までの「それらしさ」を尊重することである。所謂地方色は芸
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