の二人は、やがて、同じ巴里を舞台として、恋愛と芸術の羨ましい提携振りを見せる。これは、仏蘭西の演劇史上、唯一の華々しい脱退挿話だ。
近代になつて、われわれの知つてゐる顔では、ジェミエのアントワアヌ座脱退、デュランとジュヴエのヴィユウ・コロンビエ座逐次脱退、サルマン夫妻の制作座脱退、ララ夫人の国立第一劇場脱退等が記憶に新しい。
日本では、文芸協会から抱月須磨子、その抱月須磨子の芸術座から沢正一党が、沢正の新国劇から同志座一味が脱退したことと、築地小劇場の三重脱退が、その過程に於いてやや似てゐるから不思議である。
凡そ、脱退の理由は、表向きと内情とを綜合してはじめてこの真相がわかるのであつて、一方の云ふことだけ聞くと、あんまり堂々としすぎてゐるのが常である。
それにしても、止むに止まれぬ脱退といふ場合もあらう。不平を抑へることは時によると卑屈であり、その爆発は、形式如何によつて正義の烽火とも見える。かの、身辺華やかな「脱退者」に引きかへて、新派の頭目、伊井蓉峰の昨今は、誰も注意しないのであらうか。「日暮れて路遠し」と彼自ら云ふのを聞けば、感慨転た切なるものがある。この一座には、いつ
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