素面の管
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)五月蠅《うるさ》い
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 文学を愉しむ文学者の少いことは一体わが国の誇りですか。
 あれではいけない、これではいけない――まあ、なんといふ気むづかしい連中の寄合だらう。
 それもいゝさ。批評家などゝいふものは、わかつてもわからなくても、顔をしかめてさへゐれば、何か意見がありさうに見えるんだから。しかし、自分で小説なり戯曲なりを書いてゐながら、人の書いたものと云へば頭ごなしにこき下し、たまに褒めたかと思へば、きつと説教めいた文句で、将来の心得まで附け加へなければ承知しない。そんな仲間が、どこへ行つたつてあるもんかい。
 殊に片腹痛く思ふのは、世界歴史さへ碌に知らずに、時代がどうの、社会がどうのと、文学そつち退けの思想家気取り、そんな批評家もたまに出て来るのは愛嬌だが、猫も杓子も、文学史論はちと聴きづらい。
 凡そ当今の文壇に、奇々怪々な迷信が一つある。曰く「作家の職分」に対する迷信。
 詳しく述べるまでもない。文学者殊に作家は、人間のうちで、一番「えらい人間」だと思つてゐることである。さう思はなければ承知ができないことである。
 教へて呉れとも云はないのに、「人間の生き方」などを鹿爪らしく説いて見たり、知りたくもない自分の生活を深刻らしく吹聴したり、従つて、或作品を読んで、さういふものが見つからないと、この作者は「人間が如何に生くべきか」を考へてゐないと云ひ、此の作者は、「一生懸命に生きようとしてゐない」と云ふのである。
 いづくんぞ知らん、文学を愉しむ読者は、作品を透して、作者の考へを、生活を、一生懸命さを知らうとはしないのである。たゞ、その考へが――誰でも考へるほどの考へが――どう考へられ、どう現され、その生活を――誰でもしさうな生活を――どう生活し、どう描き、その一生懸命さが――一生懸命になるほどのことでもないと思ひながら――どういふ風に一生懸命になり、それがどう面白く書かれてゐるかを味はへばいゝのである。
 勿論、小生がこんなことを云はなくつても少し静かに考へたら誰でもわかることである。「おれが何時それと反対なことを云つた」と怒鳴り込まれない先に断つて置くが、文学者だからと云つて、ほかの種類の人間と、何も変つた考へを有ち、変つた生活を生活し、ほかの種類の人間よりも一生懸命に
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