百二十四年の夏だ……女房危篤の知らせで……。
神谷  実は、話といふのは、ほかでもないがね……。(時計を見る)
一寿  え?
神谷  お嬢さん方はまだお勤めか……。何時頃だい、退けるのは?
一寿  上の奴は、今日は夜学へ出る筈だ。下の奴はもうぢきに帰つて来る。
神谷  夜学にまで引つ張り出されるのか?
一寿  自分で志願したんださうだから、世話はないさ。なんでも、その方は無給でやつてるらしい。

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間。
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神谷  君も長男を亡くしたとなると悦子嬢には養子だね。
一寿  オー・ノン・メルシイ。
神谷  さうか、我党の士だな。うん、時にその話だがね、愛子さんの方を先に片づけるつていふのはまづいかなあ?
一寿  ああ、愛子つて云へば、あの節はいろいろどうも……。当人も非常に感謝してるよ。近頃の娘は働くことを自慢にしとるやうだ。レコード会社とは、それにしても陽気でいい。どんなもんだらう。うまく勤まつてるかな。
神谷  大丈夫さ。社長の木崎が馬鹿に力瘤を入れてるから。なかなかシヤキシヤキしてるつていふ話だ。吾輩も、まあこの分ならと思ふんだが、しかし、つらつら将来のことを考へて見ると、そこにまたいろいろな不安がないでもない。女はやつぱり女さ。そこでひとつ、世話のしついでだから、そのシヤキシヤキのお嬢さんを、今のうちに、手早く、玉の輿へ乗つけちまはうといふ相談だが、聴いてくれるかね?
一寿  玉の輿……? おい、おい、これでも氏は正しいんだぞ。
神谷  パルドン。相手は、国こそ違ふが子爵閣下だ。名刺を見せるが、ちやんと、左肩に五つの星の王冠が刷り込んである。おまけに、財産の点では、メエゾン・ペルシエの副支配人と云つただけで、相当の代物だつてことがわかるだらう。
一寿  何処の副支配人?
神谷  ペルシエさ。知らんか。横浜に支店のある……。
一寿  毛唐かね。
神谷  野暮なことを云ふな。レジオン・ドヌウル!
一寿  いちいちレジオン・ドヌウルを云ふなよ。娘を何処で見たんだね。
神谷  ダンスホールかと思つたら、さうぢやない。実は奴さん、日本の流行歌を歌ふんでね。それがなかなか愛嬌があつて面白いもんだから、国華レコードに勧めてみたんだ。先例もないことはないが、味もまるで違ふし、社長、喜んでね。吾輩が連れてつて、社で吹き込ませたもんさ。その時、接待係といふのか、君んとこの令嬢が、さあ、用意が出来ましたから、どうかこちらへといふやうなわけでね、よろしくシヤルマントなところを見せてしまつたんだな。それからといふもの、うるさく社へ顔を出すさうだよ。忘れないうちに云つとくが、その青年、年は三十七、日本流に数へても、八だ。名前は、ルネ・ド・ボオシヨア、文字通りのブルジヨア・ジヤンチヨンムで、さつき云ひかけたが、モロツコにどえらい地面と、革の工場をもつてるさうだ。
一寿  なんの?
神谷  革さ、牛や羊の皮……。
一寿  玉の輿かと思つたら、それぢや革の輿か。なるほど、別段腹も立たんね。しかしだ。かう見えて、吾輩も、やつぱり日本人の端くれだな。娘を毛唐の腕に抱かせるのかと思ふと、なんとなく後暗い。当人同士、事を運んだといふなら別だが、君もそこを察してくれ。これで妙なもんだ。娘たちの意志に逆らふまいとすればするほど、父親の見栄といふやうなものが、事毎に自分を臆病にする。一切干渉はせんといふ主義だが、さうなると、もう、してやりたいことも、おつかなびつくり[#「おつかなびつくり」に傍点]伺ひを立ててからといふ始末だ。知つての通り、母親もなく……。
神谷  さう、まあ、悄げるなよ。
一寿  悄げるわけぢやないが、勇気はまるでない。娘たちと一緒に暮すことさへ、気兼ねだ。そこで、此間も、――どうだ、お前たちは、もつと自由な空気を吸へ、アパート生活でもしてみる気はないか、さう云つてやると、二人とも顔を見合して、結局、不賛成さ。どういふわけかと思つたら、自分たちが稼ぐ分だけは、今迄どほり勝手に使ひたいと云ふんだ。吾輩程度の分際では、生活費をまるまる補助するといふことは、こりや無理にきまつてる。が、そこだて。吾輩の恩給の七十円なにがしといふもんを、月々そつちへ廻さうかと云つてみた。すると、今度は、どういふ返事をしたと思ふね。
神谷  むろん、異議あるまい。
一寿  異議はない。ただし、どうせ呉れるんなら、このままかうしてゐて、それだけお小遣に貰つた方がいいといふわけさ。
神谷  なんだつて、さう小遣がいるんだ。
一寿  上の奴には、妙な道楽があるらしい。
神谷  道楽とは?
一寿  慈善さ。寄附行為さ。
神谷  ほほう、珍しいね。
一寿  いゝかね、そこでだよ、その七十円なにがしの
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