りしてつてくれ。なんにもないが、晩飯にスキ焼でもつツつかう。久し振りで、巴里時代を演じようぢやないか。白葡萄酒《ヴアン・ブラン》も、口を開けないのがある。
神谷  まあ、待つてくれ。今日はさういふわけにいかん。今云つた通り、約束があるんだ。
一寿  え?
神谷  約束があるつて云つてるんだよ、人に会ふ……。
一寿  いいさ、いいさ、約束なんか取消したまへ……。君の細君はうまい日本語でさう云つたことがあるぜ――「日本人の時間、どうにでもなります」つて……。
神谷  (あたりを見廻して)やあ、いろんなものを、ちやんと持つてるね、君は……。見覚えのあるものばかりだ。あの皿は、ストツクホルムで一緒に買つたもんだ。ね、さうだらう……。あの会議に行つた連中ぢや、残つてるのは笠原だけさ。こないだ土耳古から帰つて来た。たうとう参事官まで漕ぎつけやがつた。どうだい、病院の方は……? 多少慣れたかね。パスポートに判を捺すのとはどつちが楽だ?
一寿  一日中薬の臭ひを嗅いでるつていふのは、面白いもんだよ。外へ出るとなんだか、鼻を忘れて来たやうでね。まあ、大きなことは云へないが、これでも、事務長さんで、年が物を云ふから有難いよ。副領事になると、とたんに、首が飛んだなんてこたあ、誰も知りやしない。海外放浪二十年、多少は法螺も吹けるしね。若い医者を煙に捲くぐらゐなんでもないさ。(紅茶を運んで来たらくに)そんなものより、葡萄酒の方がいい。平民的に行かう。忘れたかい、クレベエルのカフエーでさ、月給前になると、――エ・ギヤルソン、ドウウ・ブランなんて呶鳴つたもんだ。
神谷  競馬で摺つた後なんかもね。さう云へば、この奥さんだな、(壁の写真を見ながら)苦労をさせたのは。留守宅俸給を逆為替で捲き上げたりなんかしてさ。
一寿  (葡萄酒の栓を抜きながら)いや、ほんとの苦労は、それから先だ。マドリツドで首を切られた後、十年間義務不履行といふ時代があつたんだ。女房は、しかし、泣きごとを云つて寄越さなかつた。吾輩は、アルヂエリヤへ渡つて、一と旗挙げるつもりでゐたところが、ほら、欧洲大戦だ。まあ、一ついかう。目論見は外れる、かへる旅費はなしさ。ええい、糞ツていふわけで……。
神谷  義勇兵だらう。その話は聞いた。
一寿  さあ。(杯を挙げる)
神谷  (これに応じて)レジオン・ドヌウルの健康を祝す。
一寿  千九
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