る。考へて見るとつまらないことである。
 日本の読者にもお馴染のゾラ――自然主義の巨頭、例の『ナナ』の作者ゾラが、大いに自然主義演劇を唱道して、自分でも劇作に手を染めた。勿論、劃時代的作品を書いたつもりであつたらう。ところが、時の鑑識ある劇評家から頭ごなしにやつつけられた。やつつけられるならまだいいが、「ふん」と云つて横を向かれてしまつた。
 なぜかと云へば、それは「戯曲になつてゐない」からだ。ゾラの戯曲を評して異口同音に使はれる言葉は、曰く、「彼は対話させる術を知らない」。
 これを別の言葉で云へば、即ちコポオがエルヴィユウの戯曲を評して、「作者が人物の対話に耳を傾けてゐない」と云つたそれである。ゾラは兎も角、モオパッサンの文章は実に名文でもあり、その小説の会話の部分を見ても、寸分の隙はないやうにみえるが、彼にしてなほ、戯曲を書けば、「対話させる術」一科目で落第するのである。
 どうもこれが先天的に劇作家であるかどうかが分れるところであると見えて、モオパッサンの小説、殊に、短篇などと来ては、そのまま好個の一幕物になりさうなものばかりであるのに、それが小説である時にさうなので、戯曲を書くと誠にだらしがなくなる。変にぎごちなくなつて彼独特の魅力が、どこへやら行つてしまふのである。これに頗る似た例が現代日本の作家中にもあるやうである。
「対話させる術」――なんでもない術のやうであるが、そして、外に何等の才能を持ち合せてゐないものが、これだけで劇作家の仲間入をしてゐるやうなのがあるにはあるが、これがつまり、「戯曲が書けるか書けないか」の免許状みたいなものになるわけであるらしい。
「佳い戯曲が書けるか書けないか」といふ第二の免許状は、また別である。そこをくれぐれも弁へてゐてほしい。
 ひねくれた物言ひをするわけではない。事実、現代の日本に求むべきものは、「佳い戯曲」とまでは行かない、「戯曲になつてゐるもの」なのである。
 そんなら、これはどうだ、あれはどうだと一々突きつけられては事面倒になるが、ある標準以下のものは問題外にしようではないか。それがある標準から見て、たとへ、「戯曲になつてゐて」も、多少とも、われわれの文学的好奇心を刺激し、美的快感を喚起しないやうなもの、芸術的作品として数多き古今の名篇佳作と、同列は愚か、その末席を汚すことさへゆるされないやうなものは、ここで問題にする必要はあるまい。
 で、前に述べた如く、日本には作劇第一免許状を持つてゐない自称劇作家が多い。多すぎる。これは無免許運転手と同様、危険千万である。つまり、読者や見物の方が、油断なくよけて歩かないと、とんだ憂き目に遇ふからである。
 このことは、所謂新劇俳優にも通用する。此の方は免許状が実際に要るさうであるが、それは警察の方で知つたことで、こつちの知つたことではない。俳優の第一免許状と云へば、「台詞が言へるか言へないか」といふ免許状である。「対話させる術」に対して、これを「対話する術」と名づけよう。対話のできない人間といふものは嘗て聞かないが、その術を心得てゐる人間は、これまた日本には少ないのである。少ないのはいいが、それを心得ずして俳優を志すことは無謀も甚だしい。
「対話する術」とは何かと云へば、「言ふこと」のただ一つの「言ひ方」を捉へることである。「語られる言葉」の心理的効果に敏速な判断を加へ、一方、その効果の表示に適切な機会を与へることである。少々固苦しい言ひ草であるが、これを詳論する暇はない。
 さきに、戯曲の読み方のところでも云つたことは、俳優の場合に最も必要で、一々の言葉、一々の文句、一々の台詞に決定的な表現を与へる基礎的素質、つまり「語られる言葉」に対する感性だけは、どんな俳優でも有つてゐなければならない。
 俳優の素質については、後日詳論する機会があると思ふ。
 これでまづ、「我等の劇場」が要求する演劇の根本条件について、戯曲の本質、舞台の言葉なる意義並びにその研究法について、概略の説明を終つたつもりである。(一九二五・四)



底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「演劇新潮 第二年第四号」
   1925(大正14)年4月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年9月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング