「いや、今の日本現代劇がまだほんとの現代劇になつてゐないので、詰り西洋で古典劇と区別される近代劇、その区別されるところだけを、日本在来の芝居に取つて附けたやうなもので、西洋では古典劇から近代劇を通じて、ある一貫した伝統――劇的伝統がある。その伝統をわれわれは残して来てゐるから、いつまでも日本芝居の伝統から離れた新しい芝居が生れないのだ。まあ見てゐ給へ、そのうちには西洋劇がそのまま、完全な姿で、日本の現代劇になるよ。勿論、それと同時に、日本劇の伝統から、新しい現代劇が生れるかもしれない。なほまた、日本劇の伝統と西洋劇の伝統と、二つの伝統がうまく融合統一されて、第三の日本劇が出て来るかもしれない。さうなつたら、見ものだぜ。どうだい」と、いふやうなつもりで、こんなことを云ひ出したのである。
 どうも、同じことを方々に書く恐れがあるが、従つて外のことは何にも問題にしないやうに思はれる恐れがあるが、今のうちは、そんなことぐらゐ我慢する。
 要するに、外国劇の研究をもう一度し直す必要がある。それには、もうそれぞれの作家、それぞれの作品の、文学史的考察や、思想的傾向の吟味や、所謂、独逸流演劇学者の作劇術より見たる戯曲構成の論議や、そんな風なことはどうでもいい。ほんとに、もうどうでもいいのである。われわれ芸術家並びに芸術愛好者にとつては。それよりも、一人の作家の一つの作品を、頭のいいものなら十度、頭の悪いものなら十五度(その差大ならず)ばかり読み返すんです。勿論原書でさ。翻訳などは当てにならない。ただ読まないよりはましくらゐなところだ。そこで、原書を読む。人物の心理に細心の注意を払ひながら、その心理的波動の韻律に耳を澄ましながら、そして、その舞台の雰囲気に敏感な神経を働かせながら、自らその人物に扮した気持で台詞を云つてみるのである。その時、諸君は気がつくであらう。ただ一つの、例へば「いいえ」といふ言葉が、如何に「言はる」べきか、如何に「言ふ」べく書かれてあるか、如何に云ふことによつて、その人物の心理が最も鮮やかに、前後の関係に於て、最も美しく、諸君の耳に、心に、生命全体に響いて来るかといふことが。試みに今この「いいえ」といふ言葉の「言ひ方」が幾通りあるか思ひつくままを挙げてみよう。調子を表はす符号はないから、その調子を出すために他の言葉をつけ加へてみよう。
[#ここから2字下げ]
いいえ、違ひます。(さうぢやありません)
いいえ、わたしは知りませんよ。なにかのお間違ひでせう。
いいえ、なかなか、それどころの騒ぎぢやないんです。
いいえ、さうぢやないんですつたら。
いいえ、さうに違ひありません。
いいえ、どう致しまして。さう仰しやられると却つて恐縮です。
いいえ、何んでもないんです。
いいえ、断じてさういふことは出来ません。
[#ここで字下げ終わり]
 一寸思ひついただけでもこれだけ。ト書や説明がなくつても、これくらゐの区別はできる。あとへかういふ言葉を附け加へる場合もある。附け加へない方が、簡潔で、暗示的で一層韻律的な効果を副へる場合が多い。戯曲を読む時には、この効果に敏感であることが第一。次に、この効果を次の白に伝へて、次の白を更に効果的にする想像力が必要である。
 真の劇作家は、かういふニュアンスから無意識的に微妙な心理的韻律を造り出してゐるのである。似而非劇作家は、これを意識的にやつても、それだけの結果を生み得ない。従つて「死んだ会話」になる。
 これは、一篇の戯曲を論じる場合に、甚だ些末な問題として取扱はれるかもしれないが、それは、些未の如くにして実際は、戯曲の戯曲たる「生命」を決定する問題なのである。戯曲を書く以上は、もうこんなことは問題にならない。それはさうあつて欲しい。然し、戯曲が書けるか書けないかの問題なのである。堂々一篇の戯曲と銘打つて公表された作品に対して、この問題に触れた批評をすることは、作家に対して聊か非礼であるとさへ云はなければならない。それだけ、問題にならない問題なのである。つまり、あまり本質的な、根本的な問題なのである。日本現代劇は、悲しいかな、この問題にならない問題、西洋ではもう誰も問題にしない問題を、更めて問題にしなければならない状態なのである。
 いろいろやかましい説明をすれば説明できないこともないが、この「演劇の本質」といふ問題は、われわれをどこまでも引張つて行く。度々引合ひに出して恐縮であるが、日本現代劇作家の大部、その中には人生の奥義を究めた思想家もあり、稀代の文学的才能を具へた人もあり、豊富な詩心を恵まれた人もあり、古今東西の学に秀でた識者もあり、革命家的気魄に満ちた志士もありはするが、ただ、それらの人の書く戯曲は、戯曲の本質といふ一点で、ただその一点で、西洋の凡庸な劇作家の作品にさへ及ばないのであ
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング