て、それらの戯曲が、「戯曲として傑れてゐる所以のもの」を嗅ぎ出すことができなかつたことは、慥かに日本の現代劇を本質的に発達させなかつた唯一の理由であるやうに思はれる。
 成る程、シェイクスピイヤなり、イプセンなりは、学問的には相当に研究もされ、理解もされたらうが、劇作家として、殊にそれらの戯曲がもつ「劇的美」そのものについて、一度でも解剖的に、主題と結構と文体とを、それぞれの有機的関係から分離して、論断した者があるか。また、わが国の劇作家が、個人としてさういふ点まで熟読味到したか。これは疑はしい。なぜ疑はしいかと云へば、さうすることによつて、古来の才能ある戯曲家が、共通に具備してゐるところのある「呼吸」に触れ、その「呼吸」が、日本現代劇を通じて、多少とも現はれて来なければならないからである。
 結局、なんと云つても才能の問題であつて、現代日本の劇作家が、それならば、大部分は才能なき劇作家であるといふ結論になる訳であるが、どうもこれは弁護の余地がなささうである。強ひて遁辞を設ければ、前に述べたやうに、外国劇から形ばかりの影響をしか受けなかつたといふことになる。
 これはつまり、劇作家が、自分の仕事のために外国劇を研究する以上、もつと、本気になつて、つまらない愛国心や、大和魂など振り廻さずに、しつかり外国語でも勉強し、「なるほど、ここが戯曲の戯曲たる所以だな」と思ひあたるやうな、さういふものを外国の傑れた作品の中から発見し、さういふものを自分の作品に盛らうと努めなければうそである。それから後は、実際才能の問題で、どうにもしやうがない。つまらない戯曲をいつまでも書いてゐれば、人から馬鹿にされるだけの話である。――今だからこそ大きな顔をしてゐられるが。
 そこで、僕がかういふことを云ひ出したのは、決して現代多数の劇作家を激励鞭撻して、将来の不幸を未然に防いでやらうなどと思ふわけではなく、それよりも――ここに書く目的が、第一さうでないが――これから戯曲を書かうとする青年(令嬢でも可なり)が、「なあに、戯曲なんていふものは、いい加減なもので、喋舌る通り書けばいいんぢやないか」などと、大胆にも、「人物」「時代」などと、通《つう》をきめ込まないやうに、それからまた、生来芝居に反感を抱いてゐるわけではないが、「現代劇」だけは御免だ、金を呉れても行きたくないなどと頑張る「吾党の士」に、
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