な思想を、真に身を以て示す少数の先覚者に敬意を表することを忘れてはゐない。ああ、ただそのひとつひとつに、附和雷同する徒輩の、虎の威を藉る風貌の卑しさよ! これがまた、日本の現在なのである。現代日本人の姿なのである。
一つの好い思想、好い目論見、好い言葉さへも、それを担ぎ、それに加はり、それを使ふ有象無象のために、折角の魅力が失はれてしまふ例が実に多いのだ。
趣味といふ点では、世界の何れの国民に比しても負けを取らない筈の日本人が、近々五六十年の間に、最も趣味の劣等な国民に落ちてしまつてゐる。過去の風流は、この形骸を一部に止めてはゐるが、その風流の弄び方が既に、近代的には悪趣味であつて、一向、われわれの生活を高め豊かにする役には立たないのである。
もちろん、日本の現代生活から、独特の趣味らしきものが生れる気づかひはない。しかし、没趣味は悪趣味に優ること数等である。
住んでゐる人間が、よくくすぐつたくないと思ふやうな洋風建築、公園の橋の手摺に使つてある「人造栗の樹」材などのことは既に誰でも気がついてゐるであらうが、空恐ろしいのは近頃盛んにできるバアや喫茶店の名前である。かげらうのやうに短命ならいいやうなものの、変に抒情詩調の屋号が大都会の真中にああずらりと並んでゐる光景は、歴史を有つた国とも思へないではないか!
さうかと思ふと、中野の場末あたりに、「日本屋」といふ看板を出した何かを売る小さな店がある。時節柄、人気を呼ぶつもりだらうが、素朴なるべき民衆の一人をして、臆面もなくかかる看板を出さしめるところに、時代の趣味の頽廃を見るのである。風潮も、ここまで来ると、風潮などとは云つてをられぬ。日本語の読める西洋人が、これらの看板を見て廻つたら、日本人はいよいよ気が狂つたと思ふかもしれぬ。が、そんなことは、どうせ無教育な愚民の仕業であると、われわれは平気な顔をするつもりでゐると大きな間違ひである。若し、われわれのうちの誰かに、知人某が店の屋号を附けてくれと頼んだ場合、なんの気なしに、どんな名前をつけるかしれたものではない。ちよつと洒落れた名だらうなど、鼻をうごめかしたら最期、われわれ自身、とんでもない悪趣味に陥るのが、現代日本の危なさである。
悪趣味はまた卑俗に通じる。凝りに凝つた悪趣味は、誰憚らずわれわれの周囲を横行してゐるのである。文明批評家も、経済学者も、社会運
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