たのに、その解散は已むを得ないにしても、個々の俳優が十年舞台を踏んだ揚句、まだ遺憾ながら、その「芸」によつて作品を活かし、見物を魅了する底の修業は積んでゐないやうに思ふ。
 これは、「築地」に限らず、これまでの新劇といふものが、俳優を人形扱ひにしすぎた結果である。演出者万能主義の余弊ともいへるが、要するに、俳優が自分の職分なり、領域なりを自覚して、「人形扱ひ」を受けることを不満に感じ出せばいいのである。十分な芸術的教養と、新しい演劇的感覚をもつてゐさへすれば、俳優は、いくら勝手な真似をしてもかまはないのである。演出者なるものの指図を受けなければ、調子ひとつ張れず、お辞儀ひとつできないといふ有様では、芝居が面白くなる筈はないのである。
 一方、戯曲の生産も亦、この二三年来、頓に萎靡沈滞してゐたことは周知の事実である。この現象についても、私は、既に云ふべきことを云ひ尽した。それ故、ここでこれを繰り返す気はないが、今になつて考へれば、それも、例の周期説に従ふとすると、極めて当り前のことで、それはさういふ期間だつたのである。
 果して、今、また、新しい機運が動いて来た。いつからともなく、さうい
前へ 次へ
全12ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング