ゑるやうに土を耕してはゐないからである。枯れないまでも花に香りがないだらう。実に汁が少いだらう。これはどうしたらいいか。シェイクスピイヤ、モリエエル、シルレルの耕した土を持つて来るか、または、その土の代りになるやうな肥料を与へるのである。比喩が変になるが、その土といふのは西洋劇の伝統である。肥料といふのは、近代生活の研究である。
 イプセンの思想を論じ、チエホフの手法を研め、マアテルランクの情調を云々するだけが、近代劇の研究だと思つたら大間違ひである。殊に、それだけで西洋劇がわかつたと思つたら大間違ひである。
 日本の近代劇は、どうもその辺から出発してゐるやうに思はれる。シェイクスピイヤとイプセンとが、如何なる点で結びついてゐるか、劇作家としてのシェイクスピイヤは、劇作家としてのイプセンに如何なるものを伝へてゐるか、シェイクスピイヤの戯曲が、戯曲として何故に魅力をもつてゐるか、その魅力が、イプセンの戯曲の魅力と如何なる共通点があるか、それが、戯曲の本質と如何なる関係があるか。ここまで研究の歩を進めれば、凡そ西洋劇の十分な理解が得られるであらう。それから後、シェイクスピイヤが何故に古典劇
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