欧米に於ける近代劇運動の歴史を詳説する暇はないが、われわれが、真にその名に応《ふさ》はしき近代劇を有ち得るためには、この意味に於て、暫く日本古来の演劇的伝統より離れ、一応欧米の古典劇へ眼を注ぐべきである。そして、時代と共に推移した一面を見極めると同時に、時代を通じて成長した一面を察知すべきである。そこに、われわれが求める真の新しき演劇様式を発見するであらう。その上で、更に、日本在来の演劇に公平な批判を下すがよい。そしてそこからは新しくはなくとも、われわれに最も親しい美的伝統を求めるがいい。
 われわれが自称する「近代劇」は、実際、あまりに歴史的必然性を欠いてゐる。これがつまり文学的生命の稀薄な所以である。
 西洋の近代劇は当然生るべくして生れた。日本の近代劇は偶然、外国劇の影響から生れた。西洋の近代劇は、シェイクスピイヤ、モリエエル、ラシイヌ、シルレルによつて耕された土壌の上に芽を吹いた。日本の近代劇は、云はばその芽を、近松、南北、黙阿弥の耕した土の上に移し植ゑたのである。油断をすれば枯れるにきまつてゐる。なぜなら、近松、南北、黙阿弥は、イプセン、チエホフ、さてはマアテルランクなどを植
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