のみが成長し、そのうちから更に、よい仲間と共によい見物を味方となし得たもののみが、昂然と「芸術で食へる」と云ひ得るのである。
その事実が不合理だといふ説も成立つだらう。「社会のために働いてゐて」食へん法はないといふ理論である。一応賛成であるが、適材適所の法則は、如何なる時代に於ても奨励されなければならぬ。道を迷つた人々に、道を誤るなといふ警告も私の意見の中に含まれてゐることを注意して欲しい。そして、如何なる職業と雖も、修業中は一文にもならぬこと、早く金が欲しければ、長い修業を必要としない方面を選んではどうかといふまでである。
くどいやうだが、永久の素人芝居のために、ある人々は今日まで、あまりに大きな犠牲を払ひすぎた。正しい修業を積む勇気もないものが、同志の名に於て「新劇」にぶら下ることは、もういい加減にやめてもらひたい。遠大なる劇団の理想も、それらの寄寓者へのお義理のために、中途にして挫折するのである。
とはいへ、それは誰が悪いのでもない、国情が悪いのである。
演劇的新種に適せぬ土壌は、何人かの手によつて、もつと有効に耕されねばならなかつたのである。「新劇」は今日まで、何をなしたかといへば、恐らく、総てをなしたといへるであらう。ただ、誰が何をなしたかといふ問題になると、誰も何もしなかつたのである。できなかつたのである。
余談はさておき、私のいふ「新劇の始末」について、もう少し具体的な話をしてみよう。
第一に、今すぐ、日本にあるもので、「現代劇」が作れるか? といふと、それは作れないと答へるより外はない。無理に作れば作れないこともあるまいが、名ばかりのもので、いいものは無論できない。理由は、材料がそろはぬ。戯曲は、必ずしもないことはない。非常に優れた、成功疑ひなしといふ創作戯曲はちよつと思ひ当らぬし、そんなものは前に述べた理由で当節出る筈もないが、まあこれならと思はれるものは、過去二十年の間に、十ぐらゐは出てゐるだらう。無論、「新劇」の畑から出たものである。作家のものでは、田中君の「おふくろ」や、真船君の「いたち」など、世が世なら、もつと完全にもつと面白く、従つて、もつと広い範囲で興行価値を示したであらう。阪中君の「馬」小山君の「瀬戸内海」川口君の「二十六番館」森本君の「わが家」などは、何れも芸術的に相当高いレヴェルに達した作品だが、まだまだ「新劇的」すぎ
前へ
次へ
全8ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング