る。といふ意味は、舞台にかけて、どこか、見物をまごつかせ、又は、退屈させるところがある。即ち、「神聖な退屈」を強ひる間は、それを商品と名づけることは作者に失礼かもしれぬ。商品たることを欲せぬ、又は潔しとせぬことが明瞭だからである。
 新協劇団の「夜明け前」も、同じ意味で「商品」とは云ひ難い。思ふやうな入りがなかつたのは当然である。俳優の責任ばかりとはいへない。
「商品」でないものは、悉く「新劇」だと私は考へない。素人芝居で玄人の真似だけをやつてゐるのがある。「夜明け前」は、「新劇」たるの意図を包み、「商品」のレッテルを貼つてあつた。別に、まやかしといふ意味ではないが、矛盾があり、見物は、求めるものを与えられなかつた。家へ持つて帰つて観たいと思つたのは私ばかりではあるまい。あれを、退屈でなくするのには、即ち、中身まで商品にするのには、あの解説めいた形式が邪魔をしたと思ふ。見物は、舞台に歴史の教訓も講義も求めてはゐず、ただ、歴史を材とした「演劇的魅力」を求めてゐるのである。その歴史を、見物は自分で批判することを楽しむのである。少くとも、見物をして、自ら正しい批判をなし得た如く思はせることが肝要である。作者の思想は、演劇に於て、特にかくの如き姿をもつて示されるのが、近代の礼節だと私は考へる。これは勿論、煽動的大衆劇のことを云ふのではない。「夜明け前」は、芸術的には寧ろ渋く、神経のよく行き亘つた演出であつたに拘らず、思想的に、見物を幼稚なもの鈍感なものとして扱つたところに、多少の誤算が生じたのであらう。それが、どちらかに統一されてゐたら、もつと「商品」らしく、購買慾をそそるものになつたであらう。
 戯曲はないないといふが、それこそ、外国の優れた「現代劇」を、日本の舞台に、見物に適するやうアレンヂすれば、いくらも間に合ふと思ふ。但し、俳優がゐさへすればである。外国の作品は、日本の作家のやうに、人物の倹約などしないから、一つの脚本を上演するとなると、種々雑多な型の俳優が必要である。英雄らしい人物も出て来る。堂々たる風采の紳士も登場する。教養のある淑やかな娘、生活で磨かれた老人、飄々乎たる善良な労働者、目立たないがよく見ると帳簿の数字が顔に刻まれてゐる中年の事務員、こんな人物になりきれる俳優が一人でも日本にゐるかどうか? これがゐなければ「現代劇」はおぢやんのぢやんである。旧劇や
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