と雖もわれ往かん」の如きものが上演困難になつたといふ話を聞くにつけて、どちらかといへば、同劇団と対蹠的にありと信ぜられてゐる私などでさへ、一抹の淋しさを感ぜずにはゐられないのである。
この話が事実だとすれば、いたづらに時勢を難ずる前に、私は、久板君並に新協劇団当事者に、次の点を考へて貰ひたいと思ふ。といふのはほかでもない。あの戯曲作者が若久板君でなく、これを上演する劇団が新協劇団でなかつたら、或は、現在でも脚光を浴びることができたらうといふことである。この臆測は穿ちすぎであらうか? 私はさうは思はない。それならどういふことになるかと云へば、そこが苦しいところで、久板君などは誰よりもそのことに気がついてゐるであらうが、今日となつては、もはや、現実を視る眼を新たに作らなければ、左翼演劇の旗印はこの厳しい現実の前で、なんら「進歩的」な役割を果すことができなくなつてゐることを率直に認むべきである。
久板君自身は、既に、私の云ふ、現実を見る眼を徐々に新しくしつゝある作家の一人だと思ふが、もう一歩、作品創作の上ばかりでなく、思考の体系の上で、より自由な方向を選んだなら、少くとも、作品行動は著る
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