と雖もわれ往かん」の如きものが上演困難になつたといふ話を聞くにつけて、どちらかといへば、同劇団と対蹠的にありと信ぜられてゐる私などでさへ、一抹の淋しさを感ぜずにはゐられないのである。
 この話が事実だとすれば、いたづらに時勢を難ずる前に、私は、久板君並に新協劇団当事者に、次の点を考へて貰ひたいと思ふ。といふのはほかでもない。あの戯曲作者が若久板君でなく、これを上演する劇団が新協劇団でなかつたら、或は、現在でも脚光を浴びることができたらうといふことである。この臆測は穿ちすぎであらうか? 私はさうは思はない。それならどういふことになるかと云へば、そこが苦しいところで、久板君などは誰よりもそのことに気がついてゐるであらうが、今日となつては、もはや、現実を視る眼を新たに作らなければ、左翼演劇の旗印はこの厳しい現実の前で、なんら「進歩的」な役割を果すことができなくなつてゐることを率直に認むべきである。
 久板君自身は、既に、私の云ふ、現実を見る眼を徐々に新しくしつゝある作家の一人だと思ふが、もう一歩、作品創作の上ばかりでなく、思考の体系の上で、より自由な方向を選んだなら、少くとも、作品行動は著るしく拡大されるものと私は信じて疑はないのである。これは、日本文化のために、同時に国民大衆のために、われ/\の切に望むところである。
 このことは同時に、新協劇団のどこか思はせぶりな理論癖と反抗意識についても云へることである。そこに新時代的な気魄が見えないことはないが、たゞ徒らに悲壮な身構へをするひとつの好みは、伝統的なものであるやうに感じられる。不必要に警戒を与へる原因がそこにあるのだとしたら、劇団の将来のために一考すべきであらう。
 たゞ、最後に付け加へておきたいことは、この劇団が、新築地劇団と共に、その人的要素と組織活動の上で、頗る「男性的」な面貌を呈し、時局柄、運動の目標と、座員の歩調次第では、新劇界における有力な役割を果し得る条件に恵まれてゐるといふことである。

 次に、新劇に於ける左翼的ならざる分野の活動はどうかと云へば、一昨年、築地座の解散以来、二三の代表的な劇団が相次いで瓦解し、表面的にはまつたく存在を忘れられた形であつた。
 かゝる運命に陥つた原因については、種々見方もあるであらうが、要するに、「純芸術的」といふやうな立場は劇団としては実際に意味をなさないことを証明す
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