れてしまつてゐる。
 が、しかし、これは、俳優自身の罪である以上に、「出し物」の罪である。脚本が翻訳によつて「描かれた以上」のものを失つてゐるからである。翻訳戯曲は、申し合せたやうに、翻訳調なる一種の「活字的文体」を製造し、原作の「語られる言葉」が、如何なる意味に於ても、日本語の「語られる言葉」になつてゐず、これを肉声化した時は、期せずして、「心理的リズム」と「言葉の価値」を転倒した生彩なき「白」となり終るからである。
 しかも、驚くべきことには、従来、演出者も俳優も、この問題を故意に閑却してゐたのである。
 目下本誌(「劇作」)に連載されつつあるブレモンの「物言ふ術」を読んだものは、恐らく疾くに気がついてゐるだらうと思ふが、演劇の本質的生命たる「言葉の効果」を無視し、その研究を疎かにしたところに、現在の新劇が到達した救ひ難き痼疾があるのである。
 この、翻訳劇の紹介的演出が作り出した舞台上のマンネリズム、言ひ換へれば、日本新劇の因襲的「白廻し」は創作劇の上演に於て、文体の変化に応じる感覚のフレクシビリテを鈍らせ、「白」の咀嚼に当つて怠慢を導き、人物のコンポジションに於て、通俗極まる概念の露出を強ひるのである。
 演劇を文学から離脱せしめることを以て能事終れりとする一部の論者が、この恐るべき結果を予想しなかつたことは寧ろ当然であるが、この結果は、私をして云はせれば、新しい戯曲の生産をも、間接に萎靡せしめたと信ずる理由がある。
 将来、若し、日本の新劇が、この殻を破つて立ち直る時機があるとすれば、それはいふまでもなく、俳優術の革命からである。一人の天才が現はれてもよし、一群の真摯な努力に俟つてもよし、何れにせよ、われわれの時代、われわれの生活が生み出した自由濶達な舞台表現は、俳優それぞれの天分に応じて、その緻密な観察と、豊富な想像から組立てられなければならぬ。少くとも、さういふ能力を有する俳優でなければ、演出者は演出の工夫が酬いられず、作者は、作品を托するわけに行かぬであらう。(一九三二・八)



底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
   1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「劇作 第一巻第六号」
   1932(昭和7)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007
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