新劇の殻
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)紹介的演出[#「紹介的演出」に白丸傍点]を
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 新劇に「型」などといふものがある筈はないのだが、事実、今日のあらゆる新劇団――素人の試演と称するものをも含めて――は、もう既に、一つの共通な「癖」をもつてゐる。その「癖」とは、「型」とまでは行かぬ「殻」のやうなもので、誰がどんなに工夫をしても、それからは脱けきれない、いはば、運命的な関節不随症なのだ。
 私は、これを、俳優の演技についてのみ云ふのではない。新劇のあらゆる面、あらゆる要素を形づくる人と材料について云ふのである。例へば、新劇団体の結成に当つては、その動機並に抱負についても云へるし、上演目録の撰択、演出の方針、稽古のプラン、宣伝の範囲等、何れも、この「殻」のなかで動きがとれないものとなつてゐる。しかし、問題を局限するため私は、先づ、俳優を中心に話を進めて行かうと思ふ。
 由来、新劇といふ言葉の意義について、私は幾度も疑問を提出しておいたのであるが、何よりも、新劇が少数のファン、殊に、所謂演劇青年と称する一種の文学的ヴァガボンドを対手として、その一顰一笑に神経を尖らしてゐたことが間違ひである。
 次に、この現象から出発し、西洋劇の紹介的演出[#「紹介的演出」に白丸傍点]を以て、新劇運動の基礎工事なりとしたかのオサナイズムの不幸な帰結をここに見得るのだ。
 さて、私の云ふ新劇の「殻」とは、抑も何を指すか。
 第一に、「紹介」といふ仕事がもつ、総ての一時性、誇示性、非独創性、そして、「あとはお察しに委せる」といふ省略性、即ちこれである。
 第二に、「翻訳」なるものの免れ難き「不完全さ」――殊に、「概ね正確」である以上を求められない事実、語学的翻訳と文学的翻訳との曖昧な日和見主義、即ちこれである。
 以上の二点が舞台上の隅々にその根をおろして、新劇の未来を鎖したといふことは、今日もはや論議の余地はないのである。
 そこで、俳優の演技についてこれを考へれば、戯曲中の一人物に扮する場合、その役を活かす代りに、その役を「紹介」するを以て足れりとした。その人物の「描かれてない生活」は、皆目、舞台の上に現はれてゐないのである。従つて、一つの役を裏附ける俳優の人間的魅力が、全然、新劇の舞台から駆逐さ
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