まふだけである。
 何故に彼等は「声」をもたないか。何故に彼等は「歩くこと」がまづいか。何故に彼等は「聴くこと」に怠慢であるか。何故に彼等は「語の価値」に鈍感であるか。何故に彼等は台詞を「感じ」ないか。何故に彼等は自ら人物を「コンポオズ」し得ないか。何故に彼等は舞台の詩とプラスチックについて、初歩の概念さへもつてゐないか。何故に彼等は、ああ面倒臭い、何も知らないのか!
 私は、自分が一個の劇作家であるといふ立場を離れなければ、実際、かういふことは云へないのだ。さうでなければ、私はあまりに不遜の譏りを免れないであらう。
 また私は、自分が一緒に仕事をしてゐる人々や、現在真面目に、熱心に、その道の研究を続けてゐる一部の新劇団に向つて、かういふ言葉を投げかけてゐるのではない。私は寧ろ、世間が、所謂現在の新劇なるものに対して加へつつある一種の嘲笑に応へたいのである。「何故に諸君は、新劇俳優の歩かうとしてゐる道を塞ぐのか」と。かう反問はしても、どうせ、その返事などを聴かうとは思つてゐない。
 新劇俳優養成の一事が、今われわれには残つてゐる。しかも、その結果は露天で草花を造るほど頼りない気がする。
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