に研究しようとする人々のために開放されるであらう。が、そのことは、今ここで詳しく述べる暇はない。
今、われわれの求めてゐる俳優は、決して、中村何々、尾上何々の後継者ではない。われわれは、先づ、われわれの生活を生活とする俳優、換言すればわれわれの思想を思想とし、われわれの趣味を趣味とし、われわれの感覚を感覚とする俳優を要求する。それがためには、われわれのもつ教養を教養として受けてゐなければならない。劇作家の立場からいへば、現在、われわれの作品中に描かれてゐる人物、それが若し、知識階級の人物である場合、その近代的特性が、現在新劇俳優の何人によつて表現し得るかを疑問としないわけに行かないのである。作品の理解は愚か――それは同じことに帰着するわけであるが――その一人物に扮する俳優が、その人物の頭脳をすら所有してゐないといふことは、俳優として致命的欠陥ではあるまいか。
西郷隆盛や乃木大将に扮し得る俳優は、さほど必要としない。しかしながら、現代の教養ある一会社員やその細君に扮して、独特のキャラクタアを示し得る俳優がゐないとなると、一寸心細い。
これは素質の問題である。柄の問題であるかもしれない。それならそれでいい。さういふ素質の、さういふ柄の俳優が先づ出て欲しい。
われわれが若し、俳優養成といふ責任ある仕事を始めるとすると、どうしても俳優志望者個々の素質に厳密な注意を払はなければならない。私は、それについて、近く私見を発表するつもりであるが、ここで、はつきり云つておきたいことは、「人並み以上」の頭をもつてゐなければ、「俳優並み」の俳優にすらなり得ないといふことである。頭といふのは学問を指すのではない。知力である。悟性である。それから、感受性である。
そこで、私は、更めて読者諸君に訴へる――わが新劇のために、よき俳優を見出すチャンスを与へて頂きたい。
底本:「岸田國士全集20」岩波書店
1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「現代演劇論」白水社
1936(昭和11)年11月20日発行
初出:「女性 第十巻第六号」
1926(大正15)年12月1日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年2月19日作成
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