の民衆が、例へば、ロスタン等の諸作に対して抱くほどの痛切な興味を抱いてはゐないやうに思はれる。
私は敢て云ふ。わが旧劇の観客は、大部分、仏蘭西に於ける「ミュジック・ホオル」の観客である。そして、仏蘭西に於ける真の演劇の愛好家――これに相当する日本の公衆は、已むを得ず、活動写真館に走るのである。
映画は映画として、その観客をもつてゐるに違ひない。しかし、現在に於ては、少くとも、「芝居は面白くないから」といふ見物によつて、一層、盛況を呈してゐる観がある。
これらの現象は、どこから生れたか。私は、度々繰り返したことだが、「新しい演劇の魅力」が、まだ一般に理解されてゐないことが、第一の原因であると思ふ。
民衆は勿論、歌舞伎劇乃至歌舞伎的人情劇(新派劇)によつてのみ、演劇鑑賞の態度を教へられてゐる。外国劇は、その紹介者の努力にも拘はらず、一般民衆の文学的無教養によつて、その難解な翻訳を通してまで、特種な表現を味はせる程度に至つてゐない。
外国劇の影響から生れた現代日本の劇作家は、多く、「文学者」の域を脱せず、自分等の作品が「如何に演ぜらるべきか」といふ問題を等閑に附し、又は、比較的それに無関心であることを余儀なくされた。
その点に意を用ひた作家の大部は、勢ひ、現在の俳優を標準としての舞台的工夫を凝らさなければならない。現在の俳優とは全くの素人か、然らざれば、旧劇乃至新派劇の畑に育つた人々である。その表現能力はある限られた範囲、しかも在来の「演劇中に在るもの」から出ることはできない。従つてそれらの俳優を標準として書かれた作品が、「新しい演劇」の要素を多く含むことができないのは当り前である。寧ろ、巧みに「旧いもの」を取り入れれば取り入れるほど、舞台的に成功したのである。
新劇の不振亦故なきに非ずである。
この間に、幾度か、所謂「新劇運動」の名の下に、舞台に「新しいもの」を創り出さうと試みた篤志家がありはしたが、常に様々な障碍に遇つてその企図を挫折させた。そして、その原因の主なるものは、全く、経済的基礎の薄弱なことであるが、その経済的基礎たるや、これを築く方法を知らなければならない。その方法は、理論からいへば、「よき芝居」をすること、言ひ換へれば、一定の見物を飽かせないで引留めておくことである。
芝居の見物ほど気紛れなものはない。然るに、従来の新劇団は、私の見る
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング