とも、戦時生活の緊張と混乱のなかでは、往々、人間と人間との接触に、平生は見られない嶮しさ、刺々しさ、冷たさが生じ易いのです。「愛情の喪失」とまでは云へませんが、少くとも、「愛情の凍結」であります。殊に、見知らぬ他人同士の間に多くそれが見られます。近いものは一層近づき、遠いものは益々離れるといふやうな傾向ですが、時によると、近いものの間でさへ、ふとした動機から、心のつながりがなくなるといふ例が間々あります。
 しかしながら、戦時生活が、今迄の赤の他人同士を、ぐつと近づけ、親しい間柄にした例もなかなかたくさんあります。都市に於ける隣組や、いろいろな団体の緊密な連絡から、それがはじまつたやうに思はれます。
 もちろん、新しい利害関係や、事務上の必要から相接近するといふやうな場合は勘定に入れないとして、戦時生活の全面に亘つて、「同胞愛」といふ問題が大きく浮びあがつて来たことは争はれぬ事実であります。
 戦線において示される勇士たちのいはゆる「戦友愛」はその典型的なものでせう。
 共に歓び共に苦しむことは、云ふまでもなく、「愛情」の最も自然な出発であり、帰着でありますが、それがためには、協同の目的といふものをはつきり互に認識し合ふことが大切であります。
 今日は、誰でも頭の中で、国家の目指すところ、国民の向ふところを、しつかりと考へてゐないものはない筈です。それが国民お互の間に、心と心とを通じて、しみじみと感じ合ふところまでいけば、国内の「戦友愛」は眼に見える形で盛り上つて来るわけであります。
 ところで、「愛情」といふものは、家族間の親子兄弟夫婦の愛から、隣人、友人のそれ、更に、職場や学校などに於ける同僚、上下の愛情に至るまで、すべて、「如何に示されるか」といふことによつて、「生活のうるほひ」に関係をもつのであります。
 愛情はあるのだが、それを示さないといふのでは、ないよりはましに違ひありませんが、どうもそれだけでは、日常生活の「うるほひ」にはならないのです。
「愛情」を深く内に包んで、平生は無愛想とも思はれる態度を示し、それが何かの機会にふと相手の心に通じるやうな言葉となり行動となつて、ひときは感動を増すといふことは、事実さうでもあり、また、甚だ日本的なこととされてゐるのですが、それも、あまり極端になつては、芝居じみてゐて、ほんたうに日本的とは云へないと思ひます。よく年配の男子などが、家族その他に対して優しい顔を見せまいとするのは、「愛情を小出しにしてはならぬ」と自ら戒めてゐるわけで、その心持はよくわかるのですが、どうかすると、それを口実に、自分以外への無関心を自ら省みないこともあり、また、威厳といふことを履き違へてゐる場合もあるのであります。
 たしかに、「愛情」の問題は微妙を極めてゐます。浅薄な愛情の氾濫は、もちろん人間の生活をふやけさせます。しかし、かたくなな愛情の拒否も亦、生活を寒々とした、うるほひのないものにします。
「愛情」の素直な、或は適度の表示といふことは、人間の本性に基く欲求であり、また、訓練による「嗜み」でもあるのですが、これは、口で云ふほど、た易いことではありません。多くの場合、その表示は、不自然であつたり、程度を超えたり、不十分であつたりするものなのであります。
 さういふわけで、「愛情」の表示には、それ相当の技術がいるとまで考へられてゐます。悪い意味の技巧は、「愛情」を不純なものとし、受け容れる側の反撥を買ふことはもちろんでありますが、示すべき愛情を、それだけのものとして、十分に、自然に相手に感じさせる方法は、なるほど、一種の身についた技術と云へるかも知れません。技術といふ言葉が気に入らなければ、「たしなみ」といふ言葉を、こゝでも使つていゝと、私は思ひます。
 家庭生活の「うるほひ」は、主として、家族間の「愛情」の自然な発露に求めることができますけれども、私が特に青年諸君の注意を喚起したいことは、職場や学校などの集団生活、わけても、勤労の時間に、同僚や先輩長上に対して、不必要に「無愛想」な表情を示さないこと、言ひ換へれば、「戦友愛」の自然なすがたが、せめて「眼附」や言葉の調子にだけなりと示されてほしいといふことであります。
 近頃、「商業道徳」といはれるものの一つに、客あしらひの問題が数へられてゐます。「売つてやる」といふ調子の横柄さ、突慳貪な客扱ひは、流石に誰の眼にも余るとみえ、商人の自戒を求めたものと思はれますが、これなども、同胞に対する愛情がないとは云へないのでありまして、まさしく、他の感情のために、それが押しのけられ、客の方に通じなくなつてゐるのです。

 そこで、この「愛情」の表示を最も自然ならしめ、適当ならしめるためにも、古来、人間には「礼儀」といふものが考へられてゐるのであります。
「礼儀」
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