ば、油断をせぬこと、頭が自由に働くことであります。また一方から云ふと、何かに没頭しきることはあつても、時々は「我に返る」ことを忘れないこと、つまり、「かまけ」ないやうにすることであります。常に自分が自分の主《あるじ》であることであります。
従つて、勉強や仕事の最中にも、「心のゆとり」といふものはなければならず、それによつて、勉強も仕事も実際に成績があがるのみならず、そこにおのづから、歓びを味ふこともできるわけであります。
次に、「生活のうるほひ」となるものに「希望」があります。青年ならば、これを「夢」と呼んでもいゝでせう。
とにかく、希望のないところに生活はないと云つてもいゝくらゐで、その希望が輝かしいものであればあるほど、「生活」は活気に満ち、「うるほひ」に富むものとなります。
「希望」と一と口に云つても、その種類程度は様々でありますが、いつたい、希望は、在るものではなく、作るもの、生むものだと、私は信じます。誰にしても、「希望」がないなどといふことは嘘で、若しさうだとしたら、それは、希望を作る力、生む力がないといふことになります。
「青年の夢」については、後の章で詳しく語るつもりでありますが、そもそも、「生活」のなかの希望とは、やはり、なんと云つても、正しい意味における「幸福な生活」を想ひ描き、それに一歩々々近づく可能性を信じることでありませう。
「希望」は精神のうちに棲む「不死鳥」であります。一つの「希望」が失はれたと感じる瞬間、それに代る第二の希望がもうそこに生れてゐるといふのが、溌剌たる精神の常態でなければなりません。「希望」はどんな小さなものの中からも生れます。「希望」はまた、どんな手近なところにも作り得るのです。一粒の朝顔の種が塵ともなり希望ともなるといふことを考へてみればわかります。
それからまた、「生活のうるほひ」の一つの重要な要素は「愛情」であります。
元来、「愛情」を全く失つた人間といふものがあり得るでせうか。私はないと信じます。たゞ、時には、「愛情の涸渇」といふことが起るだけです。人間にとつて最も不幸な現象であります。それは、愛情を受け容れ、また、愛情を表示する能力が停止した状態をいふので、一種の精神的不具であります。かういふ人物に接すると、われわれは、人間の生きてゐることの惨めさをつくづく感じさせられます。
それほどではなく
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