徳は元来「意志的」なものとされてゐるのですが、今日われわれの社会で「道徳」と名づけられ、また、「道徳」で通用してゐるものの多くは、単に「観念」や「理念」を説くことであるか、或は、「感情」の色彩の濃い表情を示すに過ぎないやうに思はれます。道徳は飽くまでも「行為」でなければなりません。仮りに「道徳」を説くことも「道徳的」だとすれば、その説くところは、少くとも、言葉として、「意志」的な響きを伝へ、「意志」としての力をもつた行為そのものでなければなりません。
道徳論が行為としての価値を問はれることになると、もはや、観念的な高さや正しさだけで満足することはできなくなります。そこには、表現の美しさも要求されませう。意欲の旺んなことも一つの条件となりませう。いはゆる知情意を貫く「誠」の現れとして、行為の人格性が問題となるのであります。
国家の危急に当つて、国民に一つの行為が要求されるとします。それは他から命令され、強制され、奨励される場合もありませうし、自らの会得によつてそれが観取される場合もありませう。是が非でもやらなければならぬことと、なるべくやつた方がいゝことと、程度から云つてもいろいろありませう。
兵役の義務、今日で云へば、戦場に赴くことは、青年男子にとつて、もはや絶対の要求であり、これを躊躇するものは一人もない筈です。
国民徴用令に応ずることも、今や、必須の国家的要請でありまして、これに対する覚悟も既におほかたはできてゐます。
そこで問題は、各職域、各地域に於ける、いはゆる翼賛運動に対する青年各自の関心と協力のしかたについてであります。これは、殆ど青年の自発的参加に俟たなければならぬ領域であります。
新しい「理念」の啓発と、瞬間的な「感情」の誘導は、政府と各職域に於ける指導者の手で、先づ一と通りの目的は達成されるのですが、強靭な「意志」の発動とその持続とだけは、青年自ら進んで蹶起し、矜りをもつて自己を鞭うち、希望と信念によつて激しく自分を引き摺り廻さなければ、断じてそのことは不可能でありませう。
苦痛を苦痛と感じる場合、常にそれがあまりに早いことを恥ぢなければなりません。それが、鍛錬の始めであります。
苦痛を苦痛と感じなくなることは、決して鈍感になることではなく、訓練によつて苦痛の種類が違つて来るのです。
こゝで私は測らずも、ある名士の意見なるもの
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