あります。

 もともと、「身だしなみ」といふのは、飾りといふ意味での服装だけについて云ふのではありません。むしろ、頭から爪先までといふ全身にくばられた用意のほどを意味するのであります。何処へ出ても、人間としての矜りを保ち得るだけの身支度であります。
 そこで、あまり「身だしなみ」にこだはつて、却つて不自然な、男ならばこせこせした印象を与へるといふやうな結果になることがあります。これはもう、ほんたうの「身だしなみ」ではなく、一種の虚飾であり、日本的な「嗜み」を失つた浮薄で柔弱な趣味の持ち主だと私は思ひます。「身なりをかまはぬ」といふことが、どうかすると、逆にその人柄の美しさを褒めた言葉として用ひられるのは、さういふ現象に対する皮肉であります。
 フランスにも、エレガンス・ネグリジェといふ言葉がありまして、「身なりをかまはぬやうにみせた身だしなみ」を指すのであります。「なげやりの美しさ」であります。かうなると、おしやれの道は、東西その軌を一にしてゐると云はなければなりません。

[#7字下げ]一〇[#「一〇」は中見出し]

「身嗜み」についてはこれくらゐにしておきまして、次には、「時と場所柄とを弁へる」嗜みについてお話をします。
「時と場所柄とを弁へる」といふことは、日本人が昔から非常に大切にしたことでありまして、家庭教育はこの点に力を注ぎました。
 世間も亦、多少酷なと思はれるほど、これによつて人の値打をきめるといふ風がありました。
 明治以来、封建的な社会秩序が乱れ、時と場所との観念が昔どほりでは通用しないところもできて来て、つい、世間一般もたいがいのことは、大目にみるやうになつた。家庭でも、以前のやうに厳しい躾《しつ》けはできない。両親は、子供のすることを、はらはらしながら、黙つて見てゐるやうになつてしまつたのであります。
 現在の社会は、云つてみれば、さういふ子供たちが大人になつて形づくつてゐる社会であります。
 行儀作法といふやうなことも、この時と場所との観念をはなれては、もちろん、意味がないのであります。意味のない行儀作法を教へるから、それは守られないのが当然であります。
 言葉遣ひにしても、標準になる正しい言葉遣ひといふものは当然なければなりませんが、それは飽くまでも、時と場所柄との観念と結びついて、美しく活かされるべき性質のものであります。習つたとほりの言葉を、何時、何処ででも遣ふといふことになると、それは滑稽であります。つまり、「嗜み」がないといふことになる。
 行儀作法、言葉遣ひを含めた人間の行動の規準は、めいめいが己れの「矜り」を保つといふところにあるのは当然として、その「矜り」が、社会生活を最も秩序あるものとし、人と人との関係を常に円滑に運ばせるやうなものであることが絶対に必要であります。
 自分の「矜り」が、他人の「矜り」を傷けるやうな場合が仮りにあるとしても、それが不必要に、不用意になされてはならないのであります。まして、他人の矜りを傷つけることによつて、自分自らの「矜り」を失ふといふ結果も往々にしてあり得るのです。米英両国の今日は、まことにその好適例のやうに思ひます。

 時と場所柄とを弁へぬ「不嗜み」は、いはゆる躾けのわるさにもよりますが、一方、「思ひ上り」から来るのであります。
 米国人の「がさつ」なことと、英国人の「人を人とも思はぬ」傲慢さは、既に譬へ話になるほどの世界の定評でありますが、われわれ日本人の古来、それによつて比ひなき「ゆかしさ」を示した謙虚の美風も、今はどうなつてゐるのでありませう。

 時と場所柄とを弁へないために、相手の感情をそこね、一座の空気を白けさせ、纏る詰も纏らないやうにしてしまふ例を、私は屡々私の周囲に見るのであります。公の場所では、その例が特に目立ちます。最も「嗜み」がなければならぬ指導階級の人々で、「嗜み」を忘れた言動を敢てする結果、これに対する軽侮と反感が一般に生じてゐる例も間々あります。
 およそ、人に対する尊敬と信頼とは、その人の「考へてゐること」に対してではなくて、その人の「すること」と「言ふこと」に対してであります。如何に立派なことを考へてゐても、人前で「嗜み」を欠いた、つまり、人としての矜りを自ら棄て去り、人としての魅力を台なしにするやうな言動を平然として示すならば、それはもう、指導者としての資格を失つたものと云はざるを得ません。
 われわれ一般国民の相互信頼も一致協力も、また、われわれ一人々々の、時と場所柄とを弁へた「嗜み」ある言動によつて、多くはその実が挙げられるといふことを、今こゝで、深く考へなければならないと思ひます。
 近頃、「親切運動」といふやうなことが提唱され実践されてゐますが、私は、これがつまり、「嗜み」の復興を目指した運動だと解してゐ
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