があります。
 疲れても疲れをみせず、腰をおろしたくても起つたまゝでゐるといふ風なことは、それが仮りに「気取り」であつても、さういふ「気取り」ならば青年にはゆるされます。
 ましてこの種の「我慢」は青年の自己訓練として当然必要でもあり、また、その「我慢」そのものが、ゆかしくも凜々しくもみえるのです。

 青年男子は、何をおいても「男らしさ」の修業を心掛けねばなりません。「男になる」とか、「男を磨く」とかいふ言葉は、主として徳川時代にある特定の階級で用ひられたために、一種の臭味を生じてゐますが、これは決して侠客の専用に委すべき言葉ではないと思ひます。「任侠」の倫理は如何に男性的でも、「やくざ」と自称する理想の低さによつて、たゞそれだけで一般の倫理とはなり得ないだけです。
 女子青年が「女らしさ」の完成を目指すべきことも亦これと同様でありますが、「女らしさ」といふことが、とかく誤られがちで、新時代の女性の理想は、たゞ単に「男性のために」といふ従属的な関係のみを基本として打ち樹てらるべきではありません。女は、女としての自らの矜りのために「女らしく」あるべきであります。
 男女の特質の詳細な比較は、こゝでは必ずしも必要ではありますまい。たゞ、男の「男らしさ」は女を「女らしく」し、女の「女らしさ」は男を「男らしく」させる根本の条件だといふことを、こゝでははつきり云つておくにとゞめます。

[#7字下げ]一六[#「一六」は中見出し]

 そこで、男女青年、特に男子青年に「嗜み」として希望したいことは、前章「文化とは」の項に掲げた、「卑俗さ」をはじめとして、苟くも、「卑しい」と名のつく一切の言動に対して、常に敢然と戦ひを挑むことであります。これは他に向つて敵を求める前に、先づ自分のうちに厳重な掟を作らなければなりません。
「卑しい」と名のつくものに、その他、「卑怯」あり、「卑劣」あり、「卑屈」あり、「卑猥」あり、です。そのうちの幾分かについては前条でも触れたと思ひますが、更にこゝで繰り返しておきたいわけは、青年の高邁なすがたを、次代の国民として頭に浮べるだけで、私は胸がいつぱいになるほどうれしいのです。
 そして、かゝるすがたは、「卑しきもの」すべてを払拭することによつて、鮮やかに描き出されるからであります。
「卑怯」、「卑劣」、「卑屈」は、いづれも、わかり易い道徳の範囲で、自他
前へ 次へ
全34ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング