手段においてであります。多くは大それた、身勝手な欲望であるにも拘らず、青年のそれは、「夢」の性質を帯びて屡々純化され、或は「抱負」となり、「志」とさへなります。
「志」といふ言葉はもはや「野心」とか「抱負」といふ言葉とはつきり区別して用ひなければなりません。なぜなら、それは飽くまでも、自分本位の「夢」ではなく、「現実」の条件を基礎としながら、信念による自己の力の限りない発展を予想し、一切の障碍を越えたところに、絶対の目標をおくものだからです。
「志」はまたかの「志望」などといふ言葉の概念ともおよそかけ離れたもので、ずつと厳粛で悲壮な響きをもち、早く云へば、天下国家のため身命を賭して奮ひ立つ至誠と情熱であります。「志を抱く」とは、今日まで普通に理解されてゐたやうに、単にある目的を目指して勉強するぐらゐのことではなくて、国を思ふ止むに止まれぬ気持から、自分の信念に従つて、困難とも思はれる道へ踏み出す決意を固めることであります。
従つて、幕末のやうな時代に於ては、「尊皇攘夷」こそが、日本人の日本人たる「志」であり、そのために身を挺した人々を「志士」と呼ぶのです。
然しながら、今日に於ては、また別の形で「尊皇攘夷」といふ精神が高く掲げられなければならないのではありますけれども、それは維新当時の如く、国内に倒さなければならぬ幕府のやうな存在はなく、全国民の向ふべき道は炳乎として定まつてゐるのであります。それゆゑに、今日の青年は、おのおのが選ぶ本来の職域に於て、その「志」が遂げ得られることを無上の幸福と考へなければなりません。
そこで問題となるのは、「男子志を立てゝ郷関を出づ、学若し成るなくんば死すとも還らず」といふ有名な詩についてであります。
こゝで云ふ「志」は、前に述べたやうな日本風の解釈に従ふことはできますまいが、ともかく前途に洋々たる望みを抱いて故郷を離れる青年の意気を示したものであります。そこで学業が若し中途で進まないやうなことがあれば、自分の「志」は全く達せられず、故郷に帰つて人々に合はす顔がないといふ、悲壮は悲壮に違ひありますまいが、しかし、どことなく独りで力んでゐるやうなところのある詩であります。今は誰でもさう思ふでせう。
ところが、嘗ての時代は、かういふ詩が実にぴつたりと胸に来る時代だつたのです。そして、さういふ時代の気風が、まだまだ実際には、根
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