務であります。
しかも、恋愛は、たとへ主観的な心理の作用によるものとは云へ、青年の精神の錬磨と無関係ではないのでありまして、そこに描かれる「夢」は、享楽、陶酔、自己満足、耽溺などの色彩に塗りつぶされてはなりません。分に応じ、格に適した条件を外さない限り、相手の映像は心身ともに理想化すべきことは云ふまでもなく、その理想化は、浅薄な「美男美女」といふやうな標準によらず、女ならば、真に男らしき男、男ならば真に女らしき女をひたすら想ひ描くことによつて、男は男の矜りを、女は女の矜りを高らかに胸にひゞかすべきであります。そこには、肉体と精神、姿態と性情との、渾然一体となつた「人間美」の典型が浮びあがるでせう。言語動作、思想行為、表情気分、それらのひとつひとつが、すべて魅力であるやうな一人の男性、或は女性の映像を創り出す能力なしには、恋愛らしい恋愛はできぬものと、私は信じます。
結婚は恋愛とおのづからその見方を変へなければなりませんが、しかし、結婚と恋愛とは両立しがたいとする意見には、必ずしも同じがたい節があります。
なぜなら、恋愛が相愛する男女の結合を意味するなら、それはそのまゝ結婚への道でありますし、また、結婚は男女の結合によつて、相愛の誠を示す唯一の形式だからです。
結婚はなるほど、子孫を得るためといふ一つの目的をもつて行はれることは事実でありますが、それにしても、それだけが目的ではなく、また、その目的さへも、相手の選択如何によつて、満足に達成せられるかどうかがきまるのであります。不幸にして子供が得られない場合は已むを得ないとしても、生れた子供の素質と、その成育のしかたとは、かゝつて、「結婚」そのものの意義となるのであります。
「結婚」にも、それゆゑに、大きな「夢」がなければなりません。その「夢」は、恋愛のそれと、美しさに於て異るところはありません。たゞ、「結婚」は、多くは現実の掟に縛られ、その「夢」も、現実の条件によつて破られ易いのであります。
しかしながら、それは、結婚に恋愛の法則をそのまゝ当てはめようとするところから生じる錯誤に基づくものであります。恋愛における対象の「美化作用」は、結婚に於ては、相手の欠点を認容しつゝ、互に長短相補ひ、自他の区別を絶して「家」そのもののうちに融けこむ「同化作用」とならなければなりません。
一心同体の夫婦関係は、恋愛から一
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