の境目だからです。

 恋愛に多かれ少かれ「夢」の要素があるとして、その最も著しい現象は、「思春期」を含む、恋愛なるものを想像する時代の、つまり、はつきりした目標のない、或は「空想のなかに浮ぶ美しい異性」への、漠然たる「恋心」とでも云ふべきものでありませう。
 次には、誰彼となく眼に映る異性のなかから、あてもなくその一人を拾ひあげて、秘かに戯れの思慕を寄せてみるといふこともありませう。
 戯れが戯れに終らない悲劇も、この時代においては、さほど深い傷手とはなりません。
 この種の「夢」は、はかないと云へば限りなくはかないものですが、しかし、これによつて、現実の恋愛が準備され、その恋愛の値打が予めほゞ決定されるといふことは、看過できないことであります。
 恋愛は、それが若し、真に恋愛と名づけ得るものなら、これはたしかに、ひとつの「力」であります。
 異性が相愛する、その愛し方によつて、自他ともに成長し、向上し、強大となることは、理窟の上からも、また、多くの例をみても、間違ひのないことです。
 かゝる「恋愛」は、また、誰にでも出来るといふものではなく、それに値する人間のみがなし得るのです。しかも、相手がこれにふさはしくなければなりません。
 最も美しく、健やかな恋愛とは、最も男らしい男と最も女らしい女との、相思ひ、相許し、相誓ふ魂の結合であります。
 相愛の男女の作る新しい世界は、ものみな豊かにして、熱と光にあふれ、事すべて希望のしるしとなつて、幸福は常に呼べば応へんとしてゐます。
 が、その反面、恋愛は、あらゆる心理的葛藤の根源であり、水面のやうに定かならぬものであります。このことが、当然、恋愛の多面性、特に猟奇的な性質を語つてゐますが、恋愛の多くが、「悩み」であるといふ所以も亦こゝにあるのです。
「恋愛」を「夢」として夢みる青年男女に望みたいことは、決つた相手のあるなしに拘らず、その「夢」が飽くまでも、かくあるべき恋愛のすがたに近いものであること、そして、恋愛は、事実結婚を予想するとは限らないにせよ、やはり、結婚へのひとつの道として、その可能性の上に「夢」そのものが運ばれて行くことであります。
 かくあるべき恋愛のすがたは、傑れた文学のみが諸君にこれを教へるでせう。
 結婚へのひとつの道として恋愛を夢みることは、次代を背負ふ国民の一人として、恋愛を厳粛に考へるものの義
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