あとでいゝから、お前お給仕をしておあげ。
妻  いゝのよ、勝手に食べさしておけば……あゝこの方ね、うちでそら、お世話してる方なの。鳥羽さんておつしやる詩人の方よ。これあたくしの母……。
母  はじめまして……どうぞ、さあ……。
妻  まあ、こつちへいらつしやい。何んのお話し一体、ゆつくりでいゝでせう。
母  あゝ、そりやもうなんだけど……実は門司の伯父さんね。今危いんだとさ。
妻  危いつて御病気だつたの。
母  それが急のことらしいよ。あたしも一度御見舞に行きたいと思ふんだけど、何しろこんな事情だしね……昨夜《ゆうべ》お前が帰つてから、手紙が来たのさ。(帯の間から手紙を出して見せる)危いつていふもんの、かういふ事が云へるくらゐだから、お前まだ気はたしかなんだよ。とにかくそこに書いてある通り、一人も子供はないし……。
妻  (手紙を読みながら)一寸……いま読んでるんだから……まあ財産を分けて下さるつていふのね。(夫は急に顔をあげて、妻の方を見る)
母  をひや姪つて云つても、うちの兄弟三人きりだからね。姉さんとお前と厚《あつし》に、五万円|宛《づつ》つていふんだらう。
妻  なんだか嘘見たいだわ。
母  全く小説か芝居の筋にでもありさうな話さ。だけど、よくそんなに残したもんだよ。だが、それでゐて、お前不断をごらん。姉さんのときでもお前のときでも、お祝はたつた二円の為替《かはせ》ですよ。
妻  (誰れにともなく)五万円つて云つたら、百円の何倍になるの。
詩人  五千倍でせう。
妻  (夫の方を見て)さうなるかしら。
夫  (わざとそつぽを向き)計算してごらん。
母  どつちにしても、少いお金ぢやありませんね。この娘《こ》も果報者ですよ。
妻  (それとなく夫に)それだけあれば、もう少し陽気に暮せるわね。
詩人  (急いで)エヘン、渋谷さん、もう二十分前ですよ。
夫  それぢや、失礼ですが、僕はこれで……。
妻  でも、まだお話があるかも知れないわ。もう少しいゝでせう。
夫  (立ち上つてから)それもさうだね。今日は一時間ぐらゐ遅れても、いゝにはいゝんだ。
詩人  (これも立ち上り)エヘン/\。(さういひながら夫の背中をつく)
夫  (仕方がなしに歩き出しながら)しかしまあ、僕には関係の少い事だから、お前からよく……。
詩人  (相変らず夫を押しやり)エヘン……エヘン。
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