のプリンスと、日本のテノールがちやんと納まつてゐる。もちろん初対面であるが、不思議な気がした。一座にけい[#「けい」に傍点]秀画家がゐて、今度のサロンに、そのプリンスをモデルにした肖像を出品したといつてゐる。プリンスは、満足げにその盛上つた小鼻を一段とふくらまして、物好きな女共の鑑賞に身を任してゐる。
 やがて、話が北上して日本に来た。
 見ると、わがテノールは、ポケツトから二三枚の楽譜を取りだし、イスから起ち上つて、もぢもぢしてゐる。
 ――君、一寸、この歌の意味をみんなに説明してくれませんか。僕、これから歌ひますから。……。
 僕は、困つたことになつたと思つた。だれも歌へとはいはなかつたはずだ。それとも音楽家の敏感な聴覚は、一同の眼付から、その希望を聴き取つたのか。
 僕は仕方なく
 ――この方が、歌を唱はれるさうです。歌の意味はかうです。芭蕉といふ有名な詩人、詳しくいへば、ハイカイの天才が……。
 僕は、息がつまりさうになつた。あとは何をいつたか覚えてゐない。僕の説明が、途中でつかへてゐると、耳のそばで割れ鐘のやうな声が響きだした。歌がはじまつたのだ。
 僕は聴手《きゝて》の顔を見ないやうにしてゐた。さうかといつて窓の外を見てゐると、表へ飛びだしたくなるに極つてゐる。眼のやり場に困つて、歌ひ手の口を見つめてゐた。僕は、はツとして、眼を伏せた。その口の一端から、あわ立つた液体が楽譜の上へ半透明な糸を引いてゐた。



底本:「岸田國士全集21」岩波書店
   1990(平成2)年7月9日発行
底本の親本:「東京朝日新聞」
   1928(昭和3)年1月31日
初出:「東京朝日新聞」
   1928(昭和3)年1月31日
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年5月1日作成
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