ほかのことを考へてゐたんだ。いや、外のことではない。昔のジャックのことを考へてゐたんだ。あの頃、よく、頭髪《あたま》に花をさした美しい娘が、君のアトリエの前で馬車を止めさせて、君が絵を描くのを見てゐた。さも、君の描いてゐる絵が、よくわかるやうな顔をして見てゐた。その眼附には、しかし、ある不思議を感じる色が浮んでゐた。こんな立派な服装をした男の指から、しかも昨夜、食卓で、あんな面白い、あんな憎らしい話をした男の指から、どうしてこんな見事な絵が生れるのか、さういふ疑ひを、僕はその眼の中に読んだのだ。ジャック! このことを、僕は、この序文の中に書くのを忘れてゐた。さ、手を出し給へ。今日は、ひどく疲れたから、少し眠ることにする。案内はさせないから、いゝ時に帰り給へ。
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二人は、長い握手を交す。
プルウストが、横になつて眼をつぶるのを待ち、グランジュは、足音を立てないやうに部屋を出る。ベットの上にあつた例の書物が、パサリと床に落ちる。
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底本:「岸田國士全集5」岩波書店
1991(平成3)年1月9日発行
底本の親本:「浅間山」白水社
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