我輩は、胸を躍らした。読みはじめると涙が出た。殊にあそこだ…………(本を取り上げて読む)
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すべて、見える世界から見えない世界へ還つたもの、すべて思ひ出に変つたもの、今はもう、跡形もないあかしで[#「あかしで」に傍点]の並樹が、われわれの心に、今もなほ影を落とす…………
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プルウスト  読むのはよしてくれ。
グランジュ  どうしてだ。しかし、その先へ行くと、急に酔ひが覚めたやうな気がした。
プルウスト  もういゝ。
グランジュ  いや、我輩もそこは読みたくない。君は、真実であらうとして、気の毒なほど骨を折つてゐる。君は、誰にも気づかれぬやうに、我輩をやつゝけてゐる。――我輩の親爺が生きてゐたら、さぞ驚くだらう、息子のジャックが――その絵をみんな冗談扱ひにしてゐた息子のジャックが、今は、その当時のアカデミシヤン以上に偉くなつてゐるのだ――と、まあ、かういふ調子でやつゝけてゐる。
プルウスト  (悲痛な面持で)ジャック!
グランジュ  が、しかし、それはまあ、君の心尽しとして、公には、有りがたく思つてゐよう。ところで、もう一つ、君の誤解を解いておきたいことがある。それは、やつぱり、この序文の中で、君が婉曲に、我輩の態度を戒めてくれてゐる、そのことでだ。君は、サント・ブウヴの「月曜閑談」を例に取つて、彼が、その中で、モレ伯爵や、サンド夫人や、メリメその他を大作家の如く許してゐることが、後世、文学に疎く、十九世紀を知らない人々を如何に誤らせるかを説き、そのサント・ブウヴが、例へば、スタンダアルといふ変挺子な筆名を考へ出したベイルのことを、「あれや、小説家ぢやない」と云つたら、どうだと問うてゐるね。ところが、それは、サント・ブウヴが、メリメやサンド夫人と同じやうに、ベイルと一緒に飯を食つてゐる時の話だと云ふんだね。その筆法を、我輩がこの本の中で真似たと、君は考へてゐる。
プルウスト  真似たとは云はない。
グランジュ  学んだか、どつちでもいゝ。それから、かう附け加へてゐる。ジャック・グランジュは、好んで大芸術家の偉大ならざる半面を語つて自ら快しとする風がある。例へば、マネエの如き、この革命家が、勲章を欲しがり、サロンを目当てにのみ仕事をしてゐたと伝へるのは、甚だ怪しからんと云ふのだ。ジャック・グランジュは、かのサント・ブウヴのなしたるが如く、往々芸術の観点から人を見ずして、歴史の領域に足を踏み込んでゐる。
プルウスト  だから…………。
グランジュ  うん、だから、そこがこの本の興味だと、君は云つてゐる。しかも、その程度は、サント・ブウヴ程極端ではないとも云つてゐる。が、そこだ。我輩が忠実な印象を私心なく書き止めたところを、君は、この本の中で、最も、気にかゝる部分だと指摘してゐる。恐らく、君のことを書いた頁の中にも、さういふところがあつたに違ひない。
プルウスト  …………。
グランジュ  あ、この本には、君のことは書かなかつた。これは、我輩の礼儀だ。しかし、恐らく、我輩が何時か君のことを書くだらうと思つて、一層、その点に神経が働いたのだ。
プルウスト  (はじめて微笑する)
グランジュ  それなら、安心し給へ。君が中学時代に、よく仲間を集めて演説みたいなことをやつてゐた、その時の口調やよく使ふ形容詞を我輩は覚えてゐるのだが、そんなことを書くと、君は怒るかね。それから、君が一番仲よしだつた、あの女の子、…………あゝ、あのことは、君がもう小説に書いたつけな。(間)うん、さうだ。サント・ブウヴの話が、まだ残つてゐた。なるほど、彼が、同時代の作家に対して、公平な評価を下し得なかつたことは、返す返すも遺憾なことに違ひないが、「月曜閑談」は依然として仏蘭西文学の珍宝だ。それがために、われわれは却つて、十九世紀を識り得るのだ。我輩如きが、如何に、モネエをこき卸しても、君がこの序文の中で、一言、おれはジャックの意見に反対だ、モネエの中には、マネエの傑作に匹敵するものがあると云へば、後世は、それを信じるのだ。だがね、マルセル、我輩は、美術評なんていふものを信じてはゐないよ。我輩はたゞ、自分の眼で見たものを、そのまゝ描かうとする肖像画家だ。ねえ、こいつはどうだらう、かういふ事実は、三十年後の人間に多少興味はないだらうか。――大家アンリ・マチスがだよ、千九百二十年の二月二日に、オペラの舞台の上で、背広に金縁眼鏡といふ恰好で、多勢の踊子と舞踊教師に手を引かれ正体もなく肩をゆすぶつてゐたことだ。自分自身恃むところのある人間といふものは、誰が見ても美しいものだ。君には、それがわからんのだらう。
プルウスト  …………。
グランジュ  我輩の眼には、君が、たゞ美しいのだ。
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