偉大なのだ。君が、何を書いてくれても、我輩には、たゞうれしい筈なのだ。事実、この通り感謝してゐる。今度のことで思ひ出すのは、君が我輩のモデルになつてくれ、昼になると、我輩の家の食堂で、よく一緒に飯を食つた事だ。飯を食ひながら、二人は議論を闘はした。君が声を張り上げると、我輩は、それの二倍ほどの声で応戦した。そばから、親爺がかう云つたもんだ。――おい、ジャッコ、マルセルを興奮さしちやいかん、奴さん、本気で悪口を云つてるんぢやない。お前をからかつてるんぢやないか。まあ、冷たい水でも一杯飲め。ゆつくり、一口づゝ飲むんだ。百云ふ間に飲め!
プルウスト  (微笑する)
グランジュ  笑つてるが、それはほんとだ。君の恐ろしい分析の力で、僕の心の底を掘り下げてみてくれ。そして、同時に、君の感情の網を引裂いてみせてくれ。サント・ブウヴの轍を踏んだのは、我輩でなくて、寧ろ君ぢやないか。「今や、一つの流行を作つた」と称せられる我輩の肖像画は、いまだに、何処の家でも明るい場所へ掛け替へられたといふ話を聞かないのだ。マルセル・プルウストは、一九二〇年代の美術界を、どの孔からのぞいてゐたのだと、後世の批評家は疑ふだらうよ。いや、もう、こんなことを云ふつもりはなかつたのだ。我輩は、たゞ最後に、凡そ趣味を解する人間が、自分の名を傍らに、別の名が並んでゐることを至極気にするものだといふこと、その点、我輩は、甚だ君のために心を痛めてゐることを告白する。しかし、それは、もう取り返しがつかない。また、取返しをつけたくない。この序文が出来上るまで、君が度々くれた手紙に、僕が度々返事を書いた、あれだけで、僕の気持はわかつてくれると思ふ。辞退すべきものを辞退しなかつた理由も、君の友情を信じ、我輩の過を二重にしたくない、たゞそれだけだ。しかし、全世界のプルウスト党は、この我輩の難題によつて、少くとも二つの「文字で書かれた見事な肖像」を君の頁の中に加へることが出来たのだ。一つは君のお父さんの肖像、一つは我輩の親爺のそれだ。たゞ、我輩に罪がありとすれば、それこそ、君の嫌ひな皮肉――その皮肉に満ちた自画像を君に描かせたことだ。
プルウスト  (苦笑する)
グランジュ  どういふわけだか、そこで我輩の名を故ら書いてないが、あの話は、全く思ひ出しても可笑しいね。アルマ行の乗合馬車で一緒になつた話さ。君はしかも、燕尾服だぞ
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