命は、悉くあなたの為めに捧げます」と書き送つた。
 返事? さあ、それは見たものがない。

 ヴィクトオル・ユゴオは厳めしい小父さんである。女優風情に眼はくれない。時の名女優マルス嬢は同時に国立劇場の暴君であつた。彼女はその生涯を通じて、「愛せられる以上に愛した」と伝へられてゐる。第一負け嫌ひである。自分より美しいと思ふもの、自分の名声を少しでも外らすやうなものは、用捨なく排斥した。
 ユゴオは、その作「アンジェロ」の上演に当つて、他の劇場からドルヴァル夫人といふ女優を選んで、マルス嬢の相手役を演らせることにした。此の女優、ユゴオの眼にとまつただけあつて、なかなかの才女である。
 稽古中の或日、ユゴオの注意が動もすれば多くドルヴァル夫人の方に払はれるのを見て、マルスは黙つてはゐられない。
「先生、如何です、町の小屋に出る女優がお気に召しましたか」
「いや、申し分ありませんな。気だてはよし、淑やかではあり、才能も十分あり……」
 その次の稽古日に、また同じ問を受けたユゴオは、とうとう勘癪玉を破裂させた。
「申し分がないどころぢやありません。一つあなたの役をドルヴァル夫人に演つて貰つて、先
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