命は、悉くあなたの為めに捧げます」と書き送つた。
返事? さあ、それは見たものがない。
ヴィクトオル・ユゴオは厳めしい小父さんである。女優風情に眼はくれない。時の名女優マルス嬢は同時に国立劇場の暴君であつた。彼女はその生涯を通じて、「愛せられる以上に愛した」と伝へられてゐる。第一負け嫌ひである。自分より美しいと思ふもの、自分の名声を少しでも外らすやうなものは、用捨なく排斥した。
ユゴオは、その作「アンジェロ」の上演に当つて、他の劇場からドルヴァル夫人といふ女優を選んで、マルス嬢の相手役を演らせることにした。此の女優、ユゴオの眼にとまつただけあつて、なかなかの才女である。
稽古中の或日、ユゴオの注意が動もすれば多くドルヴァル夫人の方に払はれるのを見て、マルスは黙つてはゐられない。
「先生、如何です、町の小屋に出る女優がお気に召しましたか」
「いや、申し分ありませんな。気だてはよし、淑やかではあり、才能も十分あり……」
その次の稽古日に、また同じ問を受けたユゴオは、とうとう勘癪玉を破裂させた。
「申し分がないどころぢやありません。一つあなたの役をドルヴァル夫人に演つて貰つて、先生の役をあなたにやつて頂かうかと思つてゐる位です」
すると、マルス嬢も負けてゐない。
「へえ、それで、あたしが承知すると思つていらつしやるんですか」かう云つたまゝ、ぷいと出て行つてしまつた。
十九世紀の初めに、これも男勝りの女優として知られたブウルグワン嬢は、また同時に、同じ批評家から褒められたり貶されたりすることで有名であつた。
中にも、当時の勢力ある批評家ジェッフルワは、最初口を極めて、若く美しい彼女の才能を賞揚してゐたが、どうした機会か、急に酷い批評を浴せかけるやうになつた。彼女は、堂々とその理由を発表して、「あたしがあの人の云ふまゝにならなかつたから」だと宣言した。
是れを見て、ジェッフルワは苦笑しながら傍らのものに呟いた。
「おれは男とは寝ないよ」
アルフレッド・ド・ヴィニイの傑作「チャッタアトン」を演じて非凡の才能を示した女優マリイ・ドルヴァルは、俳優であつた最初の夫に死に別れて、メルルといふ若い劇作家と結婚した。メルルは前途の光明を見つめつゝ、不治の病に罹つて起つことが出来なくなつた。
彼女の半生は病める夫への美しい犠牲であつた。
彼女は、前に述べたマル
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