、演劇に携はるものが、悉く商売人であつたから、例の景品政策で客を釣つてゐたのが、客の方では、それまでも含めて「演劇」の内容であると思ひ込んでゐただけだ。新劇も亦、この轍を踏んでゐるわけだ。景品政策、必ずしも悪いといふのではなく、劇場が演劇以外のものをも同時に商ふなら、またそれはそれで許せるのだが、肝腎の「演劇」は仕入を怠り、それ以外のものを、景品ともつかず、恬然「演劇」といふレッテルを貼つて売りつける如きは、甚だ面白くないし、また、それでは、お客も承知しない筈である。諸君は、そこに気がつかなくてはいけない。これは、しかし、極端な場合で、如何になんでも、「演劇的なもの」が零であるといふ劇場はあり得ないが、今度は、その「演劇的なもの」が、どれほどの価値をもつてゐ、どれほど舞台の上で光つてゐるかといふことが問題で、この点のみからいへば、私の意見は、また正当化されるのである。最近上演された二三の新劇についてみても、劇団側で、さほど自信がなかつたやうに聞いてゐる出し物が、案外、見物にも受け、批評家の賞讃を浴びたといふのは、偶々、それが、「演劇的」といふ点で、自分たちの気づかない魅力を発揮したから
前へ 次へ
全25ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング