つくりだすのである。「今日は生きてゐた」といふ感慨の前に、われわれは頭を垂れる。そしてまた、「明日はどうなるかわからぬ」といふ覚悟を身に沁みて感じ得るものでなければ、戦ふ人々の心理に深く入ることは許されぬと思ふ。
帰りのトラックで廬山の麓を通る時、運転手の兵隊が、この辺は危いところだから全速力を出すといふ。軍官学校の広い建物が、山の中腹に整然たる俯瞰図をみせてゐる。道傍の樹の根に倚りかゝつたまゝ息絶えてゐる敵兵の屍体が目につく。
その日は何事もなかつたが、翌日そこを通りかゝつた一台のトラックが、果して敵の襲撃を受けたさうである。「危い」といふのはさういふことなのである。
一日、附近の飛行場をみなで訪れた。希望者は○○に乗せてやる、といふことであつた。人数に制限があるかも知れぬとあつて、私は若し席が空いてゐたらといふぐらゐの気持で出かけて行つた。N部隊長は、これまた偶然、私と士官学校が同期で、「やあ、やあ」といふやうなわけであつた。もうちやんと打合せができてゐたものとみえ、部隊長は、われわれの一人々々をそれぞれ○○づつに割り当て、有無を云はせず、「さあ、乗れ」といふあんばい式で、至極あつさり、この千載一遇の爆撃行に連れて行つた。敵は徳安から退却を開始したらしく、兵力一万の大縦隊を永修、※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]津街附近の上空から邀へ撃つといふ痛快な作戦である。
「たいがい大丈夫と思ふが、万一の場合は、部隊長の指図に従へばよろしい」
指揮官らしい口調で、N部隊長はわれわれをちよつと変な気持にさせておいて、部下の各○長に出動命令を下す。
私はたゞ、満身これ機械とも云ふべきあの胴体の中を、這ひまわつてゐた。
松原中尉が、ひと通り図上で進路を説明してくれる。今井軍曹は「あれが徳安です」「あれが※[#「番+おおざと」、第3水準1−92−82]陽湖」と機体の下腹部の窓から私にその方向を指してみせる。なにしろその窓は、地上数千米のところにぽかりと下向きに明いた吹きぬけの孔で、のぞいて見るのになかなか決心のいるやうな窓であつたが、私はそのへんのなにやらわからぬ出つ張りを手探りに掴んでからだを乗り出した。「見えるでせう」「見えます、敵の陣地も見えます」「橋梁がみんな破壊されてゐるでせう。われわれがやつたんです」「はあ、これは大変な防禦工事だ。山といふ山は鉢巻をしてゐる。」
爆撃用意の無線命令が部隊長から発せられた。松原中尉は、私に眼で合図をして、片手を釦の方へ伸ばした。恐らく複雑な計算をしてゐるのであらう。
「ごらんなさい、ごらんなさい」
今井軍曹の声に、私は、もう一度、首を突き出さうとした。気がつくと、私が無意識に掴まつてゐたのは、物々しい機銃の脚であつた。こんなところにも、こんなものがあるのかと思ひながら、遥か眼の下の空中に瞳を据ゑると、見えた見えた、編隊の各機から振り落された黒い細長い滴が、横倒しのまゝ大きな弧を描いて降つて行く。そして、それらが何者かの手で手繰り寄せられるやうに、次第に纏つた束になり、掌大に見える地上の一部落の上に吸ひ込まれると見える瞬間、もくもくと白煙が吹きあがつて、それでおしまひであつた。眼鏡を出して見ようと思つたがもうその暇はない。今井軍曹はもう次の作業にとりかゝつた。私も起きあがつた。今度は機体の上の窓から、宣伝ビラを撒くのである。私もそれなら出来ると思ひ、手伝ひませうと云つて、そこにある、束の印刷物を取りあげた。何処に向つて投げるのでもない。たゞ手を高く差しあげて、一度にぱツと放せばいゝのである。数千の紙片は、殆ど塊りのやうになつて、機体をすれすれに逃げる。二三枚は、尾翼に縋りつく。塊りは次第にほぐれる。鳩の群れのやうに飛び、吹雪のやうに散る。支那兵は、それの一枚一枚を拾つて読む。自国の到るところに反蒋運動が起つてゐることを知らされるのである。
編隊は徳安の南方永修附近で、大旋廻をして再び機首を北に向けた。第二回の爆撃が、同じ※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]津街の上に加へられた。敵は、地上から若干の応戦をしたらしいが、私は気がつかなかつた。戦闘機でも飛ばして来るのであつたらそれこそ油断はならんが、そんなおそれがあるとすれば、われわれの同乗は勿論許されなかつたであらう。必要にして十分な満足感を得て、基地に戻る。心にくき当局の計ひであつた。
明日は武穴の対岸馬頭から○○部隊の陽新攻撃を見に行くといふので、リユックサックに入れる品物を撰り分ける。
かねがね私は、占領直後の街へ憲兵と一緒にはひつて行つたら、住民の動静を観察するうへに便利であらうと思つてゐたから、幸ひ今、九江に同期の五十嵐が漢口○○○長として待機してゐるのに、その話をしてみた。
「そんなら漢
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