ちよつとわからない瞬間がある。乳呑児を抱へた母親は、背中を丸めて人かげにかくれる。年寄り夫婦は互に手を引きあつてはぐれまいとする。まつたくさういふ懼れがないではない。彼等のうちの幾組かは数ヶ月のあひだ離ればなれになつてゐて、今日やつと廻り合つたのかも知れないのである。
 騒然たる一つ時が過ぎて、×××の訓示がはじまつた。通訳は日本人であつたが、×××の力強い言葉の調子を伝へる工夫をしてゐた。訓示の内容は大体かうであつた。
「お前たちは戦争のおかげで苦しい目に遭ひ、まことに気の毒であるが、かういふ戦争を惹き起したのは日本ではなくて、お前たちの国の軍隊だ。蒋介石が共産党と手を組んで日本軍に刃向ふといふことは、お前たちにとつてこの上もない不幸なことだ。日本軍は、すぐにでもお前たちを事変前の状態に戻してやりたいが、今はさういふわけにいかん。しばらく辛抱せよ。われわれは、先づ戦争の目的を達したうへで、お前たちのためにできるだけのことをしてやる。日本軍は、良民に対しては決して危害を加へるものではない。その代り、当分の間、一定の地域以外に勝手に出てはならん。お前たちが一日も早く安居楽業のできるやうに、われわれは全力を尽してゐるのである。安心してその時期を待て。これから、すべてお前たちの世話は難民整理委員会がしてくれる筈だ。よくその規則を守つて間違ひのないやうにせよ。万一規則を破るものがあつたら、その時こそ容赦はせんから、そのつもりでゐよ」
 この訓示の途中、二度ばかり、あちこちで「好好《ハオハオ》」といふ掛声が聞え、それと同時に肩をゆすり、大きくうなづき、ぱッと笑顔を見せるものが大分あつた。やれやれと胸を撫でおろしもしたであらうが、一面、この活溌な群集の表情に私は驚くべき彼等の社交性をみた。
 それからもうひとつ、×××の姿が玄関の入口に現はれた時、事務所の給仕らしい支那の一少年が、なにやら大声に群集に向つて叫んだ。「脱帽」とやつたのである。これは愛嬌であつた。

 これらの難民はさしあたり食ふ道を求めなければならぬ。ある者は幾分の貯へで難民区内にさゝやかな店を出すものもある。厳重な交通の制限があるに拘はらず、彼等は、あらゆる方法で附近の農村から物資を集めて来るらしい。
 兵站病院で雑役婦を募集したところ、今迄姿をみせなかつた若い女が続々と現れた。しかし汚物の始末だけはいやがつてしない。われわれは苦力ではないといふのださうである。しかし、日本の女が自分でそれをやつてみせると、しかたがなしにやるやうになつたといふのである。北京ではじめて女事務員を雇つたある日本人が、手紙を出して来いと命じたところ、そんな仕事は女のすることぢやないと云つて突つ刎ねられたといふ話を嘗て聞いた。日本人は第一に支那女性のお気に入らぬところがありさうである。

 雨がやみ、廬山が見えだした。なるほど嶮峻な峰の連続である。頂に近いところに、白く人家らしいものが見える。外国人の別荘であらう。あの谷間々々には残敵が巣食つてゐるのだと聞いても、別にもう驚かない。
 軍報道部松岡中尉の誘導で、星子方面の第一線視察に赴く。隘口街攻撃の火蓋を切つてゐる○○部隊の本部から、やゝ前方の高地へ出た。味方の砲兵陣地がすぐ眼の下で、しかも砲列は高地を前後に挟んだ形になつてをり、自然、弾丸の唸りを頭上に聞くわけだから、最初の一発は、敵の弾丸が飛んで来たのかと思つた。
 山腹の目標に中つて炸裂するわが砲弾の威力は物凄く思はれたが、敵の姿はむろん見えず、味方の歩兵も何処をどう動いてゐるのか見分けがつかぬ。たゞ部隊本部に通ずる道路上、並にその両側の、人と馬と車の描きだす静動相半ばする風景は、何ものにも譬へ難い息づまるやうな戦線の呼吸を感じさせる。混乱のなかの秩序、休息のなかの緊張、絶望のなかの生命がそこに見出される。身を以てこれを描き得たのが火野葦平氏であらう。
 時々迫撃砲などそこから撃ちだすといふ側背の廬山は、例の飯塚部隊長戦死の跡といふ山襞をむき出して、右手前方に伸び、その先端の金輪峰が晴れた秋空にそゝり立つてゐる。秋空とは云へ、真夏のやうな太陽が照りつけるなかに、われわれは立ち、流れる汗を拭く気にもならぬ。昼食の時間になり、小松の蔭に腰をおろして飯盒の弁当をつゝいた。何処からかビールとサイダアが運ばれる。かういふ主客転倒のやうな状態が時々われわれを途方に暮れさせた。将兵の労苦をちと味はせてやれといふやうな意識はわれわれを迎へる前線の何処にも感じられない。これは当り前のことのやうだが、特筆大書すべきことである。日本人のほんたうの姿がそれなのである。彼等の真の労苦は、われわれの如何なる想像をも絶したところにあり、将兵おのおのゝ精神と肉体とが、言葉なくしてそれに堪へ、それに打ち克ち、人生至高の歴史を
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