これと名をあげ、潜伏中の場所まで教へた。この密告者は、何者かといふと、奇妙なことで、犯人の一人の実兄であつた。
 彼の陳述によると、局長殺害の指令を受けたのは、党軍陸軍大尉である彼の弟と、その部下二名のものであるが、その指令を実行して、服命すると同時に、上官の某はこれを即座に銃殺してしまつた。恐らく犯行系統の発覚を恐れ、爾後の行動の秘密を保つためと思はれる。弟の仇敵たるこの上官某と、部下の二名が今なほ楊州城内にゐるのである。生かしておくわけにいかぬ。ざつとこんなわけであつた。
 憲兵は直ちに出動、難なく一味を補へた。正規軍の大隊長はかくてゲリラ戦術の裏をかゝれてしまつたのである。
 警察局長は、この事件以来、洋車の前後左右に一団の護衛を附し、洋車が全速力を出すと周囲の護衛も韋駄天のやうに走るその光景を、私は屡々路上で目撃した。

     街頭の伝道

 一夕、小川部隊長と本部の食堂で会食をした。円い卓子を囲んで本部附の将校がずらりと並んでゐる。
 何れも血気旺んな青年士官であるが、隊長の盃を含んでの談論風発には、面々いさゝか気を呑まれたかたちであつた。部下の訓育に心胆を砕くといふやうな名隊長ぶりは、寛いだ食膳の応酬にも、磊落な鋭さをみせて、容易に若い心にも隙を与へない。
 誰かゞ、うつかりこんなことを云ひだした。
「今日、街を歩いてゐましたら、あの東門をはひつた十字路のところで、例のアメリカの宣教師が住民を集めて説教をしてゐました」
「どんなことを喋つてた?」
 小川部隊長は突込む。
「いや、遠くから見たきりで、話は聴きませんでしたけれど……」
「ふむ、心細いな」
 私は、この地区に於ける外国人の取扱ひについて、一言質問をしようかと思つたが、それはやゝ立ち入りすぎるかも知れぬから思ひ止つた。
 私の手帳には、楊州に於ける宗教関係外国権益の調査が次のやうに控へてある。
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 ┌男女中学      生徒数 二〇〇
 │小学        同   二二〇(現在七〇)
仏┤
 │聖女院実費診療所
 └孤児院
 ┌小学、女子中学   生徒数  六〇(現在四〇)
 │小学(男女)    同   一〇〇
 │聖書講習会     同    五〇
米┤
 │図書館二
 │医院
 └実費診療所
 ┌幼稚園、小・中学  生徒数  八〇
英┤
 └社会事業団
[#ここで字下げ終わり]
 なほ、宗教別による信者数は、
[#ここから2字下げ]
旧教――二〇〇
新教――五〇〇
仏教――三〇〇
[#ここで字下げ終わり]
 とある。正確は期し難いが、旧教は仏、新教は英米であるから、この数の比例は大体こんなものであらう。仏教が意外に少いが、これは各寺院の檀家といふものは非常に僅かで、所謂寺詣りをする信者などはそんなにないことを示してゐるのであらう。
 それから、フランス人経営の孤児院であるが、こゝでは単に事務所のやうなものだけがあり、孤児はすべて養育料をつけて乳母なる信者の家に預ける方法をとつてゐるとのことである。
 いづれにせよ、支那大陸に於て、これら欧米人の宗教を通じて行ひつゝある文化事業の性質とその影響力とをわれわれは十分に注意しなければならぬ。彼等がその本国の政治的立場と密接な関係に於て行動することもあり得るであらう。また、単に、個人若くは団体の道徳的、社会的名分がわが軍事行動の前に自らを屈することを潔しとしない場合もあるであらう。そして、彼等の悉くは、なんらかの意味に於て「支那贔屓」である。支那贔屓といふことがそのまゝ日本嫌ひを意味するとは限らぬけれども、支那を墳墓の地と定めてゐる彼等の大部分にとつて、この度の事変は好ましからざるものであり、理窟の上よりも先づ感情的に支那の同情者たらしめてゐることは事実である。現地のわが将兵が、この空気を敏感に読みとるのは当然である。
 しかしながら、本国の政策に準じて日本の逆宣伝を試み、日本の軍事行動を阻害するといふやうな、非打算的な冒険が、結果に於て何を齎すかといふことぐらゐは、こつちの出方ひとつで彼等にわからせることは容易だと思ふ。
 まして、支那民衆の幸福のために、彼等が真に宗教家の信念と良心とをもつて一切の「政治」の外に立つといふならば、話は至極簡単である。日本当局は、彼等をして安んじてその教義を説き道を行はしめるがよい。看視の方法はいくらもあるのである。
 徒らにその国籍によつて個々の教会に差別を設け、徹頭徹尾これを「政治的」に処理しようとするのは、決して「政治」としても上々の成績は挙げ得ないのではないかと思ふ。彼等は、今日、もはや日本軍の寛大に頼るよりほか、己れの使命を達成する道はないのである。外国の権益は成し得る限りこれを尊重するといふ百の宣言よりも、現地に於て、彼等の人間的感情を
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