に分る。欧洲人のための病院、支那人のための有料病院、同じく無料病院、婦人及乳児のための病院。病床一五〇、手術室大小各一。
前年度成績は入院延日数二二八三〇日。毎日午前医局外来及貧民区往診。投薬数三四、七四三名。
職員其他――医師一、教母一〇、男女傭人八六(看護婦、雑役、炊事係、洗濯婦)
附属小学校――教師九、生徒一五〇。
[#ここで字下げ終わり]
彼女のあとについて、部屋々々をのぞいてまはる。
こゝで私は、この病院の規模について詳しいことを語る必要はないと思ふ。たゞ、すべてが明るく、清らかで、温い微笑をたゝへてゐるやうに思はれた。「西洋」は厳然と別天地を作つてゐて、恩寵はこゝにのみあるかの如くである。重病患者の枕もとに、やはりフランスの尼さんが一人ついてゐた。にこやかな会釈をもつて私の目礼に応へた。支那人の尼さんもいくたりかゐた。それぞれ荷造りの最中であつた。院長が言葉をかけると、実にはきはきした調子で受けこたへをする。こゝにかうしてゐるのが幸福さうにみえた。
日を更めて、もうひとつの天主堂へ出掛けて行つた。そこは、郊外に近いところで、附属の神学校があり、四十人の支那学生が事変をよそに講義を聴いてゐた。司祭はもう五十年も支那にゐるといふ老人で、あのフランス人によくみる皮肉な顔附と、殊に、例のこだわりのないカトリック的自由さとが、私をははん[#「ははん」に傍点]とうなづかせた。
「世界中で支那は最も貧民の多い国だ。支那の農夫たちがどんな生活をしてゐるか、君は知つてゐるか? 彼等は、あらゆる天災の犠牲者だ」
広いホールの真ん中で、彼は私とほかに四五名の職員――なかに支那人の姿も見えた――を前にして語るのである。
「戦争……何時の戦争もおなじことだ。われわれはどうすることもできない。たゞ、日本と支那との関係を考へてみよう。自分が今日まで支那で過した経験から云へば、嘗て日露戦争後の一時、支那の上下をあげて日本贔屓であらうとした。日本でなければ夜が明けぬといふ状態になりはせぬかと思つた。その頃誰が今日あることを想像し得よう。欧米人が日本人と異なることを支那に於て行つたとすれば、それはかうだ。欧米人は金を少し余計に出した。しかも、それは資本を支那人の手に委ねて、その利益の幾分を要求するといふ仕方であつた。日本人は金を出し惜んだ。しかも、君達は自分で儲けてその分け
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