情には、われわれが生きて行くこの人生の生活のなかで、何かしら敬虔な気持が非常に足りなくはないかと考へられます。例へば学問に対する場合でも、或ひは芸術に対する場合でも、一応それを尊敬するし、それに情熱を傾けもするのですが、それに対する敬虔な気持といふか、自分がそのなかで安心立命を得るといふやうな気持が現在の日本人には欠けてゐるやうに思はれるのです。この気持をつくるのは、果して宗教家の宗教の力に依るのか、或ひは教育事業の中に盛らるべき、もつと別な力に依るものか、さういふことを私は知りたいと思ふ。
日本人には自分の国を離れて生きて行ける安心といふものが足らないのであつて、その安心をキリスト教は欧米人に与へてゐるのだといふ風にも見られますが、どうかするとさういふことを日本人の弱味だとはせず、却つて強味であるかのやうな考へ万が一方には相当強いやうでもあります。そのやうな点でも我が国の宗教教育の発達が一つの矛盾にぶつつかるのでせうか。また、自分の国を離れてよそに安住できるのがキリスト教の強味であると解釈するよりも、寧ろ日本の国家にとつてはそれが反国家的なものと考へられ易いといふこともあつて、そのへんも相当デリケートなところであるかも知れません。
科学と宗教について
近代の科学心といふものが一種の反宗教的なものとして動いて来た事実はこれを認めなければなりません。また、さういふことが確かに西洋でも十九世紀の頃に再批判されてをります。一つの信仰といふものと、科学といふものとの関係に就ていろいろ考へたりした人もある。今日になつて、既に十九世紀に西洋で議論済みの科学宗教論といふやうなものを蒸返すことは要るまいと思ひますが、指導精神をハツキリさせるためには、見極めて置くべき問題です。
現在、新体制といふものは、つまり、合理と非合理との世界観を一致させるところにあるなぞといふやうなことを云つてゐる人があります。合理と非合理なるものが果して反対を意味するかどうかは別として、何か別の言葉で云へば、これは科学的信仰説と云つてもよいのではないかと思ひます。さういふ点で、一つ紛糾を起さぬやうにハツキリした途をつけたいものです。
さきほど申した宗教的な敬虔な気持といふものは、宗教でなくても、ヒユーマニズムといふやうな考へ方からでも出て来るわけでせうが、たゞ、ヒユーマニズムといふもの
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