しも融和を欠くといふ点があるとすれば、私は、お互にもつと根本的な人間心理の機微について自覚反省すべき領域がありはせぬかと思ふ。
 いつたい、どんなつき合ひでも、初めから相手を識つてかゝるなどいふことは、実際に云ふべくして行はれないことにきまつてゐる。日本人と支那人との間に、将来どんな交渉が続けられるにせよ、相手がこつちの流儀を知らぬからといふので、それをかれこれ問題にする筈はなく、問題はたゞ、相手がどんな人物であるか、人間として尊敬し得るかどうか、仲間として信用できるか、双方相手に求めるところが互に悦びをもつて与へ得るものであるか、さういふ点にかゝつてゐるのだと思ふ。
 さうだとすれば、何も今更慌てゝ支那人研究を始めるにも及ばぬといふ気がする。もつと大事なことは、既に国内的にも幾多の摩擦の原因となりつゝある吾々日本人の一つの性癖に就いて、徹底的な研究をしてみることである。
 支那側でも、同時にさういふことを試みて欲しい。私はかういふ時代に決してわれわれ同胞の短所をあげつらつて故ら快とする気持はないのであるけれども、将に齎されんとする輝やかしい国民の栄誉を前にして、私の心甚だ平かでないのは、現在の日本人が自ら恃むところのものを、世界の識者がひとしくこれを讃仰するためには、公平にみて、われわれ自身余程の思想的鍛錬が必要ではあるまいかと感じるからである。
 例へば、と来ると、やはり政治の面に触れたくなる。が、こゝではそれが目的ではないから、例を卑近な所にとれば、支那人は非常に社交的でお世辞がうまい。だから日本人はついそれに引つかゝる。相手の好意を過重評価して、屡々裏切られる事があるといふ話を大分聞く。
 この見方は甚だ双方を理解した見方だと思ふが、さて、さういふことを知つてゐたからとて、どうにもならぬのではないかといふ気がする。なぜなら、もともと、それがお世辞だといふことが判らないから起る問題なので、お世辞かお世辞でないかを区別する能力に欠けてゐる者にとつては、結局、相手の真意がわからぬことになり、間違ひはそこからでなく、どこからでも生じるわけだから、如何ともなし難い。お世辞をお世辞らしく紋切型で云ひなれ、聞きなれてゐる民族は、お世辞らしからぬ妙味など食ひ分ける舌はもたないのが普通である。この知識は正に実地の応用は不可能とみてよろしい。
 また、かういふ話もよく聞く。支那
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