じたのである。
例へば、「既成劇壇が堕落しきつてゐたから其々の革新運動がこれこの旗幟をかゝげてかういふ大胆な試みをした」といふやうな記録だけで、その運動の正体はつかめないのである。
早い話が、大戦後のあらゆる「新劇運動」を通じて、私が最も興味を惹かれたヴイユウ・コロンビエ座にしても、なるほど、ジヤツク・コポオはある意味で、「先駆的」には違ひないが、その反面には、「伝統」への忠実な奉仕者であり、「伝統」とは、全体的の進化といふものを認めた上での「変る部分」でなくて「変らない部分」なのである。さういふものが、最も進歩的な立場でさへ、はつきり重要なものだと断言できるフランスといふ国を、僕は実に羨ましいと思つた。
僕は勢ひ日本の古典劇といふものに想ひを馳せざるを得なくなつた。
結論を急げば、たとへ歌舞伎や能にどんな「演劇的伝統」があるにせよ、今、われわれの仕事は、これまで「日本にないもの」を一旦そのまゝの形で採り入れ、更に、これを「日本人的に」処理することである。その時、或は、「日本古典劇」の美学が、現代の精神のなかに蘇るかもわからない。それはそれでいゝ。たゞわれわれは、如何なる意味で
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