事を見つけねばならぬ。幸ひ、友人の鈴木信太郎君や辰野隆氏などが、「フランス文学叢書」の計劃を発表し、僕にも何か訳さぬかと勧めてくれたので、早速、同じルナアルの短篇集「葡萄畑の葡萄作り」を、これは、散文だから一日三十枚平均、全部を十日あまりでかツ飛ばした。ルナアルの文体は散文と会話との間に微妙なつながりがあつて、戯曲を訳す参考になつたことは非常なものであつた。
話は少し前後するが、帰朝後間もなく、僕は歌舞伎劇を一度観てやらうと思ひ立ち、鈴木信太郎君を誘つて、たしか市村座であつたらう、菊五郎一座を見物した。菊五郎といふ役者をこの時はじめて観たのである。勿論、完全に酔つた。巴里で最初に、ロスタンの「雛鷲」を見た時、やゝこれに近い感動を味はつたが、精しく云ふと、向うでは胸がどきどきしたくらゐであつたが、こつちでは、悲しくもないのに涙が眼がしらに満つて来るほどの違ひがあつた。
僕は、この日の経験をあとでいろいろ考へた揚句、やつぱりかういふものだらうと思つた。歌舞伎といふものは、すばらしいものだ。菊五郎といふ役者は立派な役者に違ひない。僕は素直に、その魅力を享け容れ、純粋に芸術的感動を味つたと云へるであらう。が、しかし、僕の芝居といふものに向つて見開かれてゐる眼が、これによつて、少しも狂ひを生じたとは思へぬ。云はゞ、今日の日本に於て、芝居そのものはたしかに二つの道――二つの伝統を過去と未来にもつといふ事実を確め得たに過ぎぬ。その二つの道は同時にこれを踏んで行くことはできないのである。一方は過去より現在につながる伝統である。もう一方は、現在より未来へつながる新しい伝統なのである。その証拠に、菊五郎の芝居は、如何に完璧であつても、そこから何を生み出す力をもつてゐるか? 僕の不覚な涙は、或は民族的なある繋がりを証拠だてるかもわからないが、断じて、それは、未来性をもつものではないのだ。僕は歌舞伎の形式の美しさに、ある人々の如く芝居の本質的な生命を感じる雅量をもち合せてゐない。つまり、個人的な問題にふれることを許してもらへば、僕のなかにある封建的なものが、僕自身にはいやであり、しかも、うつかりするとそれが幅を利かすやうなことがあり、たまたま、友人と久しぶりで歌舞伎を見物するといふやうな場合に、この西洋劇の信奉者は、正体もなく馬脚を現はしてしまふのである。
こゝで、はつきりさせておきたいことは、歌舞伎といふものゝ、世界演劇界に占める地位についてゞある。僕の意見では、これは東西に比類なき高級参考品である。殊に西洋の芝居が今日あるやうな発達のしかたをした後では、もはや、全く別個な一つの方向を開拓しなければならないことに誰でも気がついてゐるのである。日本のカブキは、かゝる時機に於て、誠に珍重すべき研究資料たるを失はぬのみならず、舞台表現の一つの究極として、これが時代的意義を詮鑿しない限り、寧ろ驚嘆に値する「新芸術」の見本なのである。
ところが、現代日本の芝居を通じて、歌舞伎といふものゝ存在がどれほど新しい芝居の勃興を妨げてゐるかを考へたならば、観方はおのづから別にならざるを得ぬし、内容は取るに足らぬが、形式はそのまゝ受継いで行けるといふ議論の如きも、少し落ちついて考へたら、これは危険な議論だといふことがわかると思ふ。
西洋人が歌舞伎に感心することは、日本人が西洋劇に学ばうとすることゝ、まつたく同じ動機から出てゐると云つていゝ。しかも、如何なる西洋人が、徳川時代の庶民的感情を真に理解し、その生活と風習とを批判したか?
「日本人的」といふ言葉に含まれるあらゆる非文化性、島国性、事大性、愚昧性を、たゞにその思想のなかばかりでなく、その表現形式の、一見豪華な、洗練された、又は単純素朴な伝統のなかに、われわれは発見することができるのである。
われわれは、今日の世相のなかに、自分自身の周囲に、否自分自身のうちにさへ、既に「歌舞伎的なもの」を如何に多く、如何に根深く感じつゝあるか。われわれは、歌舞伎を観ずに既に歌舞伎に食傷してゐるのである。
僕は、日本人自らが国宝と叫ぶこの伝統的舞台に対して、たゞ、反感を以てこれを斥けようとはせぬ。寧ろ、愛情を以て、「汝、占むべき地位を占めよ」と宣告する。
さて、僕は、翻訳をつゞける傍ら、戯曲を書けるなら書いてみようといふ野心を棄てることができず、旧友で作家として名を成してゐるたゞ一人の人物を頭に思ひ浮べた。それは豊島与志雄君であつた。
八月のある日のこと、豊島君を千駄木に訪ねて、例の「黄色い微笑」の一読を乞うた。その時は、たしか、「古い玩具」と題を改めてゐたと思ふ。
豊島君は、その原稿を僕の手から受け取つて、先づかう云つた。
「君、原稿用紙は二十字詰を使ふ習慣になつてゐるんだ。書き直した方がいゝな」
なるほど、僕
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