芝居と僕
岸田國士

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)商業劇場《テアトル・ド・ブウルバール》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|黄色い微笑《アン・スウリイル・ジヨオヌ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]
−−

       一

 今更回顧談でもないが、今度「現代演劇論」といふ本を出したあとで、僕は、なんだかこれで一と役すましたといふ気がふとしたことは事実である。これからまだあとにどんな役がひかへてゐるにせよ、それがまた今まで以上に満たされない結果に終るかも知れぬにせよ、ともかく、今日まで十数年の間、僕は、芝居のためにするだけのことはし、僕の能力で齎し得るだけの成果は収めたつもりである。もつとしたいこともあつた、やればできたかも知れないやうな仕事もあるにはあつたらうが、それらはすべて、熟慮の上、望み得る程度が、現在の諸条件に照して、あまりに低いものでありすぎる場合に、僕の熱情を掻き立て得なかつたまでゞある。云ひかへれば、自分が今そんなことをしても誰のためにもならぬといふ見極めをつけた上でのことなのである。
          ×
 僕は最初、文学に志し、偶然仏蘭西語を子供の時からやつてゐたといふだけの理由で仏文学をかぢり、仏文学を原統的に学ばうと思ひ立つて先づ古典作家を読みはじめ、その代表的な作品が戯曲であつたところから、劇文学に興味を持ち、仏蘭西へ渡る機会を作るに当つて、将来の職業のことも考へた結果、日本に於ける演劇界の現状に一瞥を投げる気になり、当時の新劇運動を若干の舞台を通じて観察した。「復活」、「修善寺物語」、「忠直卿行状記」並に「その妹」、強いて附け加へれば坪内士行の「ハムレツト」、これが渡仏前に観た日本演劇の殆んどすべてゞあつた。
 巴里で最初に訪れた劇場はサラ・ベルナアル座で、演し物はロスタンの「雛鷲」、一番前の列で、女優の凄いメーキアツプを孔のあくほど見つめてゐた。
 現代作家のものは多少は読んでゐたが、ロスタンとヱルヴイユウを当代の双璧と思ひ込み、或は思ひ込まされてゐたものゝ、本場の消息を探つてみると、少くとも、一癖ある批評家は、この二人を問題にしてゐないことがわかり、大慌てに慌てた。そんなら、やつぱりキユレルが偉いかと云へば、「あんなもの」といふ奴がゐる。ポルト・リツシユの人気も侮り難い。新進のものを漁りだすと、いろんな影響がわかつて面白い。ミユツセ、ルナアルの陰然たる勢力をすでに感じた。ベツクの姿も大きく映つて来た。イプセンの亡霊が、シエイクスピヤの亡霊と手を組んで歩いてゐる。モリエールの哄笑が忽ち耳をつんざく。巴里人の眼を追つてそつちを見ると、クウルトリイヌといふ好々爺が小声で群衆に話しかけてゐる。その傍らで、ブリユウが、腐りきつて頬杖をついてゐる。
 芝居は、本を読んで行かないと三分の一もわからない。見物が笑ふ時、こつちが笑へないくらゐ淋しいものはない。が、それでも、舞台を見て、はじめて作品のよさがわかるといふ気がした。当時の僕の、脚本の読み方が如何に覚束ないものであつたかといふ証拠になるだけではない。俳優といふものが、如何に脚本を活かすかといふことをはじめて学んだのである。舞台にあるものは、脚本にあるものと同一物であつて、しかも全く別個の物であるといふ演劇の真髄に触れ得たのは一年後である。
 ヴイユウ・コロンビエ座のコポオにやつと僕の意を通ずる決心をした。研究生の資格で木戸御免の許しを得、隣の下宿屋に陣取つて毎日学校と舞台裏へ通つた。仏蘭西の芝居を理解するためには、何よりも西洋演劇の伝統をつかまねばならぬと感じた。それと同時に、さういふ伝統を生んだ文化、並に、仏蘭西の土壌について、考へねばならぬことが沢山あつた。舞台を通じて生活を見ることでは不十分なのである。生活を通じて舞台を感じる努力をした。その結果、一時代の演劇は、その時代の文化的生活人の手によつて形づくられねばならぬことを痛感した。作者は勿論、俳優が何よりもさうでなければならぬ。俳優であるが故に、民衆の偶像であつてはならないのだ。常人以上の人間的魅力――叡智と感受性の豊富さ――によつて民衆の心を捉へ得る人物なるが故に、一段高き舞台に立ち得るのでなければならぬ。近代の演劇とはかくの如きものであるといふ信念に到達した。それを除いた一切の「演劇的興行物」は近代芸術の名に価しないのである。従つて、日本には、まだ「新しい芝居」は生れてゐないと、僕は早くも断定を下してしまつた。
          ×
 一九二十年から二十三年にかけての巴里は、凡そ五十年に
次へ
全11ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング